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自身には野球のプレイ経験はほとんどないものの、若い頃から審判に興味を持っており、小禄高校時代に沖縄県高野連に審判志願したという。既に大学2年生の時には、高校野球沖縄県大会の審判員を任されるほどであった。
 
[[1978年]]よりセントラル・リーグ審判員。入局以来関西審判部に所属している。抜擢されるのが早く、[[1980年]]には22歳という若さで一軍デビューを果たす。[[1987年]]、[[オールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスターゲーム]]に初出場し、第3戦([[阪神甲子園球場]])で[[球審]]を勤める。[[1992年]]には[[日本選手権シリーズ|日本シリーズ]]の初舞台を踏み、第3戦の球審を務めた。[[2003年]]に副部長に昇進(30代で主任昇格、45歳で副部長は、異例のスピード出世といえる)。[[2007]]10月20日には、セントラル・リーグクライマックスシリーズ第2ステージ第3戦・巨人-中日戦にて通算2500試合出場を達成した。ベテランの域に入った現在でも若々しく、一軍の試合に帯同し続けており、このペースでいけば3000試合出場も十分可能である。
 
オールスターゲームには5回、日本シリーズには[[1992年]]~[[1994年]]、[[1996年]]~[[2002年]]、[[2004年]]、[[2006年]]の計12回出場している。このうち[[1998年]]と[[2002年]]、[[2006年]]に第1戦の、[[2004年]]に第7戦の、それぞれ重要な試合で[[球審]]を務めている。