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はいしゅつ【輩出】すぐれた人物が"続々と"世に出ること。輩とは「引き続いて」「続々と」の意。
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庶家という[[概念]]は主に[[日本]]の封建時代、特に[[鎌倉時代]]から[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]、[[江戸時代]]にかけて[[武家]]に見られた血族集団ないし階層のことをいった。宗家と庶家の関係はいわば本家と分家と同義であるが、一般的な分家と異なるのは、分家であれば本家と同姓を称するのが通例であるが、庶家という場合、その多くは宗家と同姓を用いることを避け、或いは禁じられその多くが別姓を称した家柄が多いという点にある。多くの武家では宗家と主従関係を結ばれた結果、宗家の[[一門]]としての待遇を離れ主家と祖先を同じくする家臣として位置づけられていった。
 
[[守護]]の家柄で代表的な例を上げると、[[武田信玄]]を出した[[武田氏]]が著名である。武田氏の家臣団には、守護の兄弟子女、或いは女婿を中心とするご親類衆があるが、[[板垣氏]]や[[甘利氏]]など、同じ[[甲斐源氏]]を祖に持つ庶流の家柄にあるものは、主に武田氏の[[家老]]を務める御譜代衆、国衆として位置づけられていた。同じく[[戦国大名]]として活躍した[[毛利元就]]を出した[[毛利氏]]では、鎌倉時代以降毛利氏より輩出された[[安芸坂氏|坂氏]]や[[福原氏]]などの庶子の一族が庶家衆として、毛利氏当主の兄弟子弟より構成された一門衆に準ずる地位に位置づけられていた。
 
伝統的権威を求心力とした時代、その重要な要素である血縁や格式が武士の心理において大きく作用した。それは実力がものをいう戦国時代においても同様である。故に、こうした守護や国人などの家政において中枢を占めた庶家衆の多くは宗家たる主家と同族であることを誇りにし、主家に対する忠誠も厚かった。しかし、それはあくまで主家との一定の自立を前提としていた。それは、庶家も主家同様、領土と居城、家臣を養い、主家から一定の独立を保った者も少なくなく、主君と家臣という強固な主従関係というよりは、事実上、宗家を盟主とする同盟関係という性格が強いものであったことによる。それだけに主家と利害対立が起こると、公然と反抗する者もあり、時として主家に攻め込んだり、或いは幕府に願い出て宗家からの自立を図ることもあった。特に戦国時代に入ると、その動きはより顕著となり、庶家の中にも主家に忠実かつ従順な者もいる一方で、主家を圧倒する者や主家の家政を牛耳る者、主家を追放し[[下剋上]]を起こす者も登場するようになった。