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ベルリン時代においては、ヘルマン・フリードマンは[[ルドルフ・シュタイナー]]と共に[[ジョルダーノ・ブルーノ連盟]] Giordano-Bruno-Bund<small> (名称はイタリアの哲学者・作家であった[[ジョルダーノ・ブルーノ]]に因む)</small> と[[フリードリッヒスハーゲナー会]] [[:de:Friedrichshagener Dichterkreis|Friedrichshagener Dichterkreis]] の一員であった。そこでフリードマンは[[ブルノ・ヴィレ]]と[[ヴィルヘルム・ベルシェ]]と交友関係にあった。
[[1898年]]から[1902年]にかけてフリードマンは[[バーゼル]]の[[弁護士]]として活躍した。[[1906年]]から[[1934年]]にかけては、[[ヘルシンキ大学]]にて[[哲学史]]の教授資格を得た[[フィンランド]]に滞在した。フリードマンはまたフィンランドの[[ソビエト連邦|ソ連]][[総督]]の顧問弁護士でもあった。
 
ヨーロッパでの政治情勢の変化からヘルマン・フリードマンは1934年に[[ロンドン]]へと居を移した。ロンドンにフリードマンは終戦してからも留まった。フリードマンはロンドンのドイツ・[[ペンクラブ]]の設立に関与し、1946年からはその代表となった。