「フレデリック・レイトン」の版間の差分

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[[Image:Flaming June, by Fredrick Lord Leighton (1830-1896).jpg|left|thumb|200px|''フレイミング・ジューン'']]
1860年、彼はロンドンへ転居し、[[ラファエル前派]]のグループと交流した。1861年、彼は[[ロバート・ブラウニング]]の依頼で、フィレンツェのイギリス人墓地にある[[エリザベス・ブラウニング]]の墓碑をデザインした。1864年、彼はロイヤル・アカデミー・オブ・アーツの会員となり、1878年から1896年まで会長職にあった。1877年の彫刻作品『パイソンとレスリング選手』''Athlete Wrestling with a Python''は、現代イギリス彫刻の復興が始まったと考えられ、ニュー・スカルプチャー(19世紀後半のイギリス彫刻の運動)と称された。彼の絵画は1900年の[[パリ万国博覧会 (1900年)|パリ万博]]でイギリス展示の象徴とされた。
 
レイトンは1878年に[[ウィンザー (イングランド)|ウィンザー]]で最下級勲爵士位を授けられた。同年[[レジオン・ドヌール勲章]]オフィシエ受賞。1886年には準男爵となった。1889年、彫刻で[[ローマ賞]]を受賞。同年に[[フランス学士院]]会員となった。1896年の新年の受勲者リストでは、画家で最初の貴族に列せられた。([[シュロップシャー]]の)『ストレットンのレイトン男爵』の爵位が1896年1月24日に授けられた。彼は翌1月25日、[[狭心症]]の発作で急死した。