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熊野神社と修験道の寺院が一体となった[[神仏習合]]の形態を取る宗教施設として栄えたが、[[平安時代]]中期以降は衰微した。
 
[[承久]]3年([[1221年]])[[承久の乱]]が勃発し、[[園城寺|三井寺]]長吏であった[[後鳥羽天皇|後鳥羽上皇]]の皇子・[[覚仁親王]]が難を逃れてこの地に下った。更に、敗れて隠岐に遠島となった後鳥羽上皇に連座して、上皇の第4皇子[[頼仁親王]]が児島に配流となった。頼仁親王は衰退していた五流の寺院と十二社権現宮を再興し、[[南北朝時代 (日本)|南北朝]]の頃まで繁栄し次第に衰微し尊瀧院のみが残った。なお、尊瀧現在まで続いている当院の歴代大僧正は頼仁親王の子孫と伝えられる。南北朝時代に[[後醍醐天皇]]を奪還しようと試みた[[児島高徳]]はこの地の出身と伝えられ、境内には児島高徳社が祀られている。
 
現在の五流尊瀧院は倉敷市立郷内小学校北に隣接しているが、元来は400mほど北の真浄院北側にあり熊野神社と隣接していたと伝えられている。