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信長によって京を追放されたとき、本願寺顕如らの仲介もあって信長は助命し、妹婿である河内若江城の三好義継のもとへ亡命した。しかし信長によって義継が滅ぼされると、剃髪して恭順の意を示した。
 
しかし、[[天正]]4年([[1576年]])、毛利領であった[[備後国|備後]][[鞆の浦]]に亡命政府(幕府)を樹立し、そこから信長打倒追放を目指して諸大名に討伐令を下し続けた。

だが、天正6年([[1578年]])に[[上杉謙信]]が死去し、天正8年([[1580年]])には[[石山本願寺]]も降伏する。
 
天正10年([[1582年]])に信長が[[本能寺の変]]で横死すると、[[毛利輝元]]の力を借りて再び上洛を目論む一方、[[豊臣秀吉|羽柴秀吉]]や[[柴田勝家]]にも同じような働きかけを盛んに行った。しかし、親豊臣派であった[[小早川隆景]]らが反対したこともあり、また、義昭は勝家を支持したため、秀吉に接近しつつあった毛利氏との関係は冷却した。
 
その後、毛利氏が豊臣氏麾下となった後の天正16年([[1588年]])、[[征夷大将軍]]を辞た。出家して[[准三宮]]の称号を朝廷から許され秀吉に拝謁、京都填島において秀吉より1万石を与えられた。
晩年には[[文禄・慶長の役]]に際し、軍を引き連れ[[肥前国|肥前]][[名護屋]]まで参陣している。[[慶長]]2年([[1597年]])、[[大阪|大坂]]で死去。[[享年]]61。
 
== 人物・逸話 ==