「フォード・モデルT」の版間の差分

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ヘンリー・フォードはモデルTの製造終了時点まで、後継モデルのことを全く考えていなかった節がある<ref>チャールズ・ソレンセンの回想による。</ref>。経営面への影響を考慮すれば異例を通り越して奇怪なまでの無神経ぶりであるが、その結果、同年末近くまで約半年以上、フォードの大衆車の生産自体が途絶してしまった。数ヶ月のうちに急ピッチで新車開発が進められたが、リンカーンの影響が強いデザインに強力な40HPエンジンと一般的な3段変速機、4輪ブレーキを備えるモダンな後継車「モデルA」が発表されたのは12月で、その本格的な量産が始まったのは翌[[1928年]]に入ってからであった。
 
この空白を突いたシボレーの販売攻勢と、その後の[[世界恐慌|大恐慌]]時代においてGMが時宜を得た生産調整で不況に対処したのに対し、フォードが適切な利益管理手法を怠ったことによって、アメリカの(ということは、当時においては同時に「世界の」)自動車産業界におけるトップの座は、フォードからGMへ移行し、それは自動車業界の固定したパワーバランスとして恒常化した。
 
フォード社はモデルTと共に大きく発展したが、最後にはそのモデルTによって躓くことにもなったのである。その20年間の歴史は、マスプロダクションの極致へと突き進んだ一つの企業が、やがて硬直化して限界に行き着き、挫折するまでの過程を、如実に現していたと言えるだろう。