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[[東京帝国大学]]助教授・森戸辰男はこの年、[[経済学部]][[機関誌]]『経済学研究』に[[ロシア]]の[[無政府主義]]者[[ピョートル・クロポトキン|クロポトキン]]に関する「クロポトキンの社会思想の研究」を発表した。このことが[[上杉慎吉]]を中心とする学内の右翼団体から攻撃を受けて、雑誌は回収処分となった。さらに、[[新聞紙法]]第42条の朝憲紊乱罪により森戸は起訴され、休職処分となる。
 
当時の助教授・[[大内兵衛]]も掲載の責任を問われて起訴される。10月2日、[[大審院]]は上告を棄却して有罪が確定。両名は失職した。[[大内兵衛]]は後に復職している。しかし、後に[[人民戦線事件]]において検挙されている
 
森戸の論文は、論理も学術的価値もない、と同じ経済学部の[[教授]]・[[渡辺銕蔵]]などは批判したが、この事件後、東大学生の赤化思想に拍車がかかった。森戸を擁護した東大新人会は、この後発展し社会主義革命の指導基地としてその勢力を拡大、[[朝日新聞]]編集局は東大新人会に支配され、終戦後も引き続いて日本の政治を左右し、朝日新聞は容共反米を強化していった。[[尾崎秀実]]や[[佐々弘雄]]、[[向坂逸郎]]、[[森恭三]]、[[広岡知男]]は東大の卒業生でこうした流れを汲むもの。また東大経済学部の教授間の思想的対立は、[[マルクス主義|マルクス学]]派と反マルクス学派の正面対立となり、同時に日本の政治的混乱と戦争の影響を受けて、この対立の学界言論界に及ぼす影響は益々重大になった。敗戦後の日本に於いては、更にそれが日本の政治勢力の所在を左右する原因となり、日本の運命を決するほどの決定的な情勢にまで進展した。森戸事件は蟻の一穴であったともいえる。なお[[岸信介]]は森戸を排斥した興国同志会に属していたが、この事件を切っ掛けに興国同志会と決別している。岸は[[マルクス主義|マルクス的社会主義]]にある種の共感を持っていたともいわれている。
[[大内兵衛]]は後に復職している。しかし、後に[[人民戦線事件]]において検挙されている。
 
== 参考文献 ==
*「[[私の履歴書]]」文化人20 森戸辰男、[[日本経済新聞社]]、1984年
*[[原彬久]]「岸信介」[[岩波書店]]、1995年
*塩田潮「岸信介」[[講談社]]、1996年
* [[渡辺銕蔵]] 「激動の日本」自由アジア社、1968年
 
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