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しかし喘鳴症は確実に悪化していた。[[ハードウィックステークス]]はミンティングとの再戦になりオーモンド生涯唯一の苦戦を経験する。2000ギニーでは破ったものの元々ミンティングはかなり強い馬で、オーモンドを避けて出走したパリ大賞を5馬身差で圧勝する実力の持ち主だった。レースはかなり激しいものものになり、何とか首差で勝ったものの既に限界に達していた。[[ジュライカップ|インペリアルゴールドカップ]]という短距離戦をを引退レースとして16戦のうち一度も負けることなく引退した。
 
=== 年度別競走成績引退後 ===
引退後のオーモンドは歴史的名馬にもかかからず不遇の余生を送った。馬主のヒュー・ルパス・グロヴナーはオーモンドに大きな愛着を持っていたものの、イギリスに喘鳴症を持ったオーモンドの遺伝子が広まることを危惧し、数年間供用した後[[アルゼンチン]]に12000ポンドで輸出した。アルゼンチンでは成功することができず、続いて[[アメリカ合衆国]]へ31250ポンドで転売された。アメリカではオーモンデイルを出したが病気のため産駒数が少なく(10年以上供用されたが産駒数は16頭)、1904年、ついに呼吸困難に陥り殺処分された。遺体は一度埋葬されたがその後掘り出され、骨格が[[ロンドン]]の[[自然史博物館]]に展示されている。生涯を通じて産駒数が少なかったため、その血を現在に伝えているのは、イギリスに残した少数の産駒のうちの1頭、オームの子孫に限られている。
 
== 成績 ==
=== 年別競走成績 ===
* 1885年(3戦3勝) - [[デューハーストステークス]]
* 1886年(10戦10勝) - [[1000ギニー]]、[[ダービー (競馬)|エプソムダービー]]、[[セントレジャーステークス]]、[[チャンピオンステークス]]、セントジェームズパレスステークス、ハードウィックステークス
* 1887年(3戦3勝) - ルースメモリアルステークス、ハードウィックステークス、[[ジュライカップ|インペリアルゴールドカップ]]
 
=== 引退後主な産駒 ===
引退後のオーモンドは歴史的名馬にもかかからず不遇の余生を送った。馬主のヒュー・ルパス・グロヴナーはオーモンドに大きな愛着を持っていたものの、イギリスに喘鳴症を持ったオーモンドの遺伝子が広まることを危惧し、数年間供用した後[[アルゼンチン]]に12000ポンドで輸出した。アルゼンチンでは成功することができず、続いて[[アメリカ合衆国]]へ31250ポンドで転売された。アメリカではオーモンデイルを出したが病気のため産駒数が少なく(10年以上供用されたが産駒数は16頭)、1904年、ついに呼吸困難に陥り殺処分された。遺体は一度埋葬されたがその後掘り出され、骨格が[[ロンドン]]の[[自然史博物館]]に展示されている。生涯を通じて産駒数が少なかったため、その血を現在に伝えているのは、イギリスに残した少数の産駒のうちの1頭、オームの子孫に限られている。
 
== 主な産駒 ==
* オーム([[デューハーストステークス]]、[[エクリプスステークス]])
* オーモンデール([[フュチュリティステークス]])