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[[治承]]4年([[1180年]])に[[源頼朝]]が挙兵すると、景親と袂を分かち頼朝の麾下に参加。後に景親が頼朝に敗れ囚われの身となると、頼朝から「助命嘆願をするか」と打診されるが、これを断り全てを頼朝の裁断に任せたという。
 
その後も草創期の[[鎌倉幕府]]において、長老格として重きをなした。奥州[[藤原泰衡]]を征伐する際、頼朝は後白河法皇の院宣を得られず苦慮していた。しかし景義が、奥州藤原氏は源氏の家人であるので誅罰に勅許は不要なこと、戦陣では現地の将軍の命令が朝廷の意向より優先されることを主張。その意見が採用された。後に出家している
 
[[Category:鎌倉氏|かけよし]]