「テッサロニキ王国」の版間の差分

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同国は[[ギリシア人]]の支持を受けて、[[マケドニア]]から[[エーゲ海]]まで領有したが、[[ブルガリア帝国]]や[[エピロス専制侯国]]と対峙していた。また前皇帝[[アレクシオス3世アンゲロス|アレクシオス3世]]が[[コリントス]]を占領していたが、これを破って[[アカイア公国]]、[[アテネ公国]]の建設を助け、その宗主権を有した。
 
しかし、[[1207年]]9月にブルガリアの[[カロヤン]]に急襲され、ボニファチオは戦死した。王位は遺児[[デメトリオ・ディ・モンフェラート|デメトリオ]]に渡った。デメトリオ自身は幼児に過ぎなかったが、貴族達が権力を握りラテン帝国に反抗した。ラテン帝国皇帝[[アンリ・ド・エノー]]は、[[1209年]]にこれらの貴族達を破り、王国の摂政権を得た。その後、エピロスやブルガリアの攻撃を一旦、はね返したが、ラテン帝国自体が[[ニカイア帝国]]等に対する防衛に忙しく、テッサロニキ王国にまで手が回らない状況であり、[[1215年]]にエピロスの君主が[[テオドロス1世コムネノス・ドゥーカス|テオドロス]]に代わると、王国領は次々とエピロスに併合されていった。[[1224年]]にデメトリオが親政を始めるとまもなく、エピロス専制侯国にテッサロニキを攻略され、デメトリオは亡命して王国はエピロスに併合された。
 
 
==テッサロニキ王国歴代君主==
*[[ボニファチオ (モンフェラート侯)|ボニファチオ1世・ディ・モンフェラート]](Bonifacio I di Monferrato)([[1205年]]-[[1207年]])  建国者
*[[デメトリオ・ディ・モンフェラート]](Demetrio di Monferrato)([[1207年]]-[[1224年]])
 
([[1224年]]、テッサロニキ王国は[[エピロス専制公国]]に併合され滅亡)
 
 
以下は名目上のテッサロニキ王号保有者
*デメトリオ・ディ・モンフェラート(1224年-[[1227年]])
*[[ボニファチオ2世・ディ・モンフェラート]](Bonifacio II di Monferrato)([[1227年]]-[[1255年]])  デメトリオの異母弟[[グリエルモ6世 (モンフェラート侯)|グリエルモ6世]](Guglielmo VI, [[1225年]]没)の息子
*[[グリエルモ7世・ディ・モンフェラート]](Guglielmo VII di Monferrato)([[1255年]]-[[1292年]])  ボニファチオ2世の息子
*[[ジョヴァンニ1世・ディ・モンフェラート]](Giovanni I di Monferrato)([[1292年]]-[[1305年]])  グリエルモ7世の息子
 
([[1284年]]のグリエルモ7世の娘[[ヴィオランテ・ディ・モンフェラート|ヴィオランテ-エイレーネー]]と[[東ローマ帝国]][[皇帝]][[アンドロニコス2世パレオロゴス]]の結婚、及び[[1305年]]のジョヴァンニの死去に伴いテッサロニキ王号は実質的に消滅)
 
 
[[Category:十字軍国家|てつさろにきおうこく]]