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審判役を判者(はんじゃ)、判定の詞(ことば)を判詞(はんじ)という。この判詞はだんだんと文学的な性格を帯びるようになり、[[歌論]]へとつながっていった。役割は判者の他に方人(かたうど;歌を提出する者)、念人(おもいびと;自陣の歌を褒め、弁護する役)とがあり、左右両陣の念人による一種のディベートによって判者の判定を導くものである。
 
[[平安時代]]に始まり、記録にあるものとしては[[仁和]]元年([[885年]])の在民部卿歌合が最古のものとされる。他に延喜13年([[913年天徳]])の亭子院歌合、天徳4年([[960年]])の[[天徳内裏歌合]]、[[建久]]3年([[1192年]])の[[六百番歌合]]、[[建仁]]元年([[1201年]])の千五百番歌合、建仁2年([[1202年]])の水無瀬恋十五首歌合などが名高い。基本的に「遊び」であるが、平安期には歌の優劣が出世にもかかわる重大事であったため今日行われるような気軽なものではない。また、時代が下るにつれて文学性が高くなり、前述のように「判詞」が文学論・歌論としての位置づけを持つようになった。
 
[[近代短歌]]以後、「遊び」の要素が嫌われて一旦廃れたが、1980年代ころからまた行われるようになってきている。念人は歌をどれだけ高く評価し、その良さを引き出すことができるか、という読みの力を試され、また方人はその掘り下げに耐える深みのある歌を作る力を試されることになり、これは近代以降の文学としての短歌にとっても有用なことであると考えられるようになったためである。
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*題(だい)
:優劣の判断がつくように歌合の歌は現代においても題詠である。
 
==主な歌合==
<>内は主催者
* [[在民部卿家歌合]] : [[仁和]]元年(885年)頃(記録に残る最古の歌合)
* [[寛平御時后宮歌合]] : [[寛平]]元年(889年)
* [[亭子院歌合]] : [[延喜]]13年([[913年]])
* [[天徳内裏歌合]] : [[天徳]]4年([[960年]])<[[村上天皇]]>
* [[六百番歌合]] : [[建久]]3年([[1192年]])<[[九条良経]]>
* [[千五百番歌合]] : [[建仁]]元年([[1201年]])頃<[[後鳥羽天皇|後鳥羽院]]>
* [[水無瀬恋十五首歌合]] : 建仁2年([[1202年]])<後鳥羽院>
 
==参考図書==