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{{記事名の制約|title=藤堂高秭}}
{{武士/開始|藤堂高秭}}
{{武士/時代|[[江戸時代]]後期}}
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{{武士/兄弟|菊松、甲、[[藤堂高嶽]]、順、[[藤堂高兌]]<br />穀、睦、挙、藤堂高邁、湧、埴<br />[[藤堂高允]]、[[木下利徳]]、[[藤堂高愨]]<br />[[藤堂高醸]]、'''藤堂高秭'''、そよ、彩、つれ<br />絃、延}}
{{武士/妻|正室:[[内藤政韶]]の3女・善姫(倍寿院)}}
{{武士/子|整子([[
{{武士/特記事項|名は、「たかかず」ともいわれる}}
{{武士/終了}}
'''藤堂 高秭'''('''とうどう たかやつ''')は、[[伊勢国|伊勢]][[久居藩]]の第14代[[藩主]]。久居藩藤堂家14代。
寛政3年(1791年)4月12日、第7代藩主・藤堂高敦(伊勢[[津藩]]の第9代藩主・藤堂高嶷)の
[[文政]]4年([[1821年]])3月20日に久居焼けという大火に見舞われ、直後に旱魃が起こるなどして藩政は悪化した。このため、文政5年([[1822年]])から藩政改革に着手し、文武の奨励や有能な人材登用に務め、文政6年([[1823年]])1月には経費節減、文政8年([[1825年]])に家臣の半知借上、孤児の救済、[[天保]]2年([[1831年]])12月8日に役人の知行を改定するなどしている。これらは成功して財政は再建された。
天保3年([[1832年]])3月9日、家督を養子の
逸話として、高秭の善政を慕った領民が、天保4年([[1833年]])に250束の薪を献上したといわれている。
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