「藤堂高邦」の版間の差分

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{{武士/父母|父:[[藤堂長徳]]、母:好子(真教院・新川氏)<br />養父:''[[藤堂高聴]]''か''[[藤堂高行]]''}}
{{武士/妻|正室:藤堂高聴の7女・澤子}}
{{武士/子|文子、藤堂高亮(長男)、養子:''[[藤堂高義]]''}}
{{武士/終了}}
 
'''藤堂 高邦'''('''とうどう たかくに''')は、[[伊勢国|伊勢]][[久居藩]]の第16代(最後)の[[藩主]]。久居藩藤堂家16代
 
弘化3年(1846年)8月8日、[[伊賀国|伊賀]]名張1万5000石の領主・藤堂長徳の次男として生まれる。長徳の家系は、初代藩主・[[藤堂高虎]]の養子・[[藤堂高吉]]([[丹羽長秀]]の子)から始まる家系である[[伊賀国|伊賀]]名張1万5000石の領主・藤堂長徳の次男として生まれるった

[[久居市史]]によると、[[文久]]3年([[1863年]])8月に第15代藩主・藤堂高聴が亡くなり、その嫡男である藤堂高行が継ぐはずだったが10月に死去したため、急遽養子(高聴か高行)となって家督を継ぎ、第16代藩主となる。12月6日に従五位下・佐渡守に叙位・任官する。
 
[[慶応]]2年([[1866年]])、[[山城]]宇治橋、伊勢山田の警護を勤めた。[[慶応]]4年([[1868年]])の[[戊辰戦争]]では東北に出兵し、新政府軍として戦った。明治2年([[1869年]])6月26日、[[版籍奉還]]により久居[[藩知事]]に任じられ、明治4年([[1871年]])7月の[[廃藩置県]]で藩知事を免官された。