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'''若杉山 豊一'''('''わかすぎやま とよいち。'''、[[1933年]][[1月24日]]-[[1999年]][[11月4日]])は、昭和期に活躍した大相撲[[力士]]である。本名は熊本 豊一(くまもと とよいち)。[[福岡県]][[糟屋郡]][[志免町]]出身。[[時津風部屋]]に所属していた。最高位は西[[前頭]]筆頭([[1965年]]3月場所)。現役時代の体格は177cm、120kg。得意技手は右四つ、寄り。
== 年表 ==
*[[1958年]]3月 新[[十両]]。
*[[1959年]]3月 新入幕。
*[[1965年]]1月 三3度目の入幕で優勝次点。生涯唯一の[[三賞]](敢闘賞)を受賞。
*[[1965年]]3月 自己最高位の西前頭筆頭で横綱[[栃ノ海晃嘉|栃ノ海]]を破り、生涯唯一の[[金星_(相撲)|金星]]を獲得。
*[[1967年]]5月 廃業。
== 来歴 ==
[[福岡県立山田高等学校]]では相撲部の主将を務め、同高校卒業後は炭鉱に就職したが、母校の所在地である[[福岡県]][[山田市]](現・[[嘉麻市]])出身の十両・[[劍龍猛虎|剣竜]](関脇・[[巨砲丈士|巨砲]]の実父)にスカウトされて角界入りした。初土俵を踏んだのが20歳と遅かったが、高校時代の経験と地力を生かし、少しずつ着実に番付を上げ、ていった。1959年3月、26歳で新入幕を果たす。以降の約2年半は、主に[[幕内]]中下位と~十両を2度往復上位で活躍した後が、1961年9月からは暫く3年以上十両に定着してしまった。その時は、このまま「万年十両力士」で終わるかだろうと思われた。しかし、[[1965年]]1月場所にて3度目の入幕内に復帰を果たするやといきなり12勝3敗で準と、優勝した横綱・[[佐田の山]]に次ぐ好成績を挙げて生涯唯一の三賞となる敢闘賞を受賞。その後、前頭筆頭まで上り詰めた。1966年11月場所を最後に幕内から遠ざかり、間もなく関取の地位からも陥落。[[幕下]]148枚目まで番付を下げに在位した1967年5月場所を最後に限り、34歳で廃業し、た。その後はサラリーマン生活を経て、郷里で相撲料理の店を営んだ。
== 主な成績 ==
*幕内在位:21場所
*幕内通算成績:128勝187敗 勝率.406
*現役通算成績:496勝495敗4休
*[[三賞]]:敢闘賞1回
*金星:1個((1965年3月場所、栃ノ海から)
*各段優勝:十両1回(19591(1959年1月場所)
== 関連項目 ==
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