「ジュール・デュピュイ」の版間の差分

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デュピュイは[[ナポレオン・ボナパルト]]の治世下におけるイタリアのフォッサーノで生まれた。10歳のとき家族と共にフランスへ移住して[[ヴェルサイユ]]で学び、卒業時には物理学賞を受賞した。彼はそれから国立土木学校で土木技師として学び、フランスの大規模公共事業を担う土木公団で活躍をはじめた。彼は次第に、様々な地方のポストで、より多くの責任を引き受けるようになった。1843年に、彼はフランスの道路体系についての仕事により、[[レジオンドヌール勲章]]を受け、程なくパリへ移住した。彼はまた、1948年に洪水管理を研究し、パリの下水道体系の構築を監督した。彼は1866年にパリで死去した。
 
フランスの国立土木工科学校(現在のENPC)と土木公団には、独自の経済学の伝統がある。公共事業に多額の税金が使われることは当時のフランスにおいても大きな問題で、この批判に応えるために、国立土木学校や土木公団で活躍した土木技術者は経済学についても造詣を深めていた。しかも、それは当時のフランスの主流派の経済学とは全く異なる性格を持っていたのである。
 
デュピュイの業績はその中でも最高峰のものと位置付けられる。彼は1844年に、[[橋梁]]の最適な通行料の決定に関わる論文を公表した。彼が[[限界効用]]の逓減する曲線を導入したのはこの中においてである。ある財の消費量が増大するにつれて、その財の限界効用は消費者にとって減少する。それゆえ、通行料の低下(限界効用の低下)は、橋を利用しようとするより多くの人々(より高い消費水準)をもたらす。逆に言うと、交通量(橋の通行を許可された人々)の増加により、その財(その価格)に支払おうとする人の支払い意欲は減少する。