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'''堀田 正休'''(ほった まさやす、[[明暦]]元年([[1655年]]) - [[享保]]16年[[7月12日 (旧暦)|7月12日]]([[1731年]][[8月14日]]))は、[[上野国]][[吉井藩]]主。[[近江宮川藩]]の初代藩主。
[[堀田正信]]の長男。母は久松[[松平定行]]の娘。正室は[[板倉重郷]]の娘。子に[[堀田正方]](長男)、[[板倉重浮]](次男)、[[堀田正朝]](三男)、[[花房職勝]](四男)、[[堀田正直]](五男)、[[堀田一興]](六男)。娘は3人([[五島盛佳]]正室、[[酒井忠菊]]正室、[[高木正敬]]正室のち堀直矩室のち水谷勝比室)。官位は従五位下、[[豊前国|豊前]]守。名は'''正国'''('''まさくに''')、他に正清、正職、正昌など。
[[万治]]3年([[1660年]])11月3日、父が罪を犯して[[改易]]されたが、正休は幼少であることと祖父の[[堀田正盛]]が幕府創設期の功臣であるということから、米一万俵を与えられた。しかし成長してからの[[延宝]]5年([[1677年]])6月、正休は父に連座して閉門処分に処せられた。延宝8年([[1680年]])に父が自殺したため、蟄居したがその後に許されて[[天和 (日本)|天和]]元年([[1681年]])に大番頭、翌年3月には[[徳川綱吉]]の子・[[徳川徳松]]の側役に任じられ、1万石の所領を与えられて吉井藩主となった。
その後は[[奏者番]]となる。[[元禄]]11年([[1698年]])3月7日、近江宮川藩に移封され、[[正徳 (日本)|正徳]]5年([[1715年]])6月29日、老齢を理由に
{{先代次代|[[吉井藩|堀田氏(吉井藩)藩主]]|1682~1698|[[奥平忠政]]|[[松平信清]]}}
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