「戸石城」の版間の差分

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== 歴史 ==
築城年代は不明だが、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]に[[埴科郡]]を本拠に[[信濃国]]北部を治めた[[村上義清]]が、隣接する[[小県郡]]・[[佐久郡]]方面の進出の拠点として大改築された(戸石城は元来城に付属する出城の名前であったものがいつしか城全体の呼称になったとも言われている)。
 
戸石城の位置は村上氏の本拠地埴科郡と上田平との境目にあたり、小県の村上領(塩田荘など)と本領を結ぶ結節点となる。また、小県に割拠して敵対していた海野氏やその支族真田氏の行動を制約することが可能であり、村上氏にとっては最重要拠点と位置づけられた。
その後、信濃へ進出する甲斐の[[武田晴信]](信玄)との間で激しい攻防が繰り広げられた。特に天文19年([[1549年]])の武田軍の一方的とも言える敗退は「[[砥石崩れ|戸石崩れ(砥石崩れ)]]」と呼ばれる。この敗戦により力攻めを諦めた武田氏は、家臣[[真田幸隆]]に攻略を命じ、『高白斎記』によれば調略によって城内に内通者を出し、天文20年([[1551年]])5月に陥落させる。同城は真田氏に与えられ、武田氏が北信濃へ進出する拠点となった。
 
海野氏を始めとする勢力を駆逐した[[海野平の戦い]]の後信濃へ進出する村上氏の小県方面の要として甲斐の[[武田晴信]](信玄)との間で激しい攻防が繰り広げられた。特に天文19年([[1549年]])の武田軍の一方的とも言える敗退は「[[砥石崩れ|戸石崩れ(砥石崩れ)]]」と呼ばれる。この敗戦により力攻めを諦めた武田氏は、家臣[[真田幸隆]]に攻略を命じ、『高白斎記』によれば調略によって城内に内通者を出し、天文20年([[1551年]])5月に陥落させる。同城は真田氏に与えられ、武田氏が北信濃へ進出する拠点となった
近年の発掘ではめぼしい遺構が発見されず、[[天正]]11年([[1583年]])に尼ヶ淵に[[上田城]]が築かれるまでの真田氏の本城は[[真田本城]]だったと考えられている。[[上田合戦]]においても支城として利用された。
 
同城は真田氏に与えられ、村上氏は本拠地である埴科郡が武田勢の直接的な脅威にさらされることになり、以後は退勢を挽回できずに配下の諸豪族の離反を招き、滅亡に至ることになる。村上氏滅亡後は、主戦場が北部の川中島方面に移ったこともあり、歴史に登場するのは[[上田合戦]]において支城として利用された時ぐらいとなる。
 
近年の発掘ではめぼしい遺構が発見されず、[[天正]]11年([[1583年]])に尼ヶ淵に[[上田城]]が築かれるまでの真田氏の本城は[[真田本城]]だったと考えられている。[[上田合戦]]においても支城として利用された
 
== 関連事項 ==