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 復員後、沖縄には戻らず、東京で文学をめざし、[[新日本文学会]]の事務局に勤務しながら小説を書く。1950年、雑誌『新日本文学』に「木山一等兵と宣教師」を発表、作家として認められるようになる。
 
このころから、[[西野辰吉]]・[[窪田精]]・[[金達寿]]たちと交流を深めていく。1953年、初めて沖縄に帰郷し、米軍占領の実態を見聞し、沖縄を直接の題材にした作品を発表し始める。1956年から『新日本文学』に連載した長編『沖縄島』で[[毎日出版文化賞]]を受賞する。1957年には、西野・窪田・金たちとリアリズム研究会を結成し、「現実変革の立場にたつリアリズム」を追求した。また、新日本文学会のなかでも幹事を歴任していたが、当時の会をリードしていた[[武井昭夫]]たちの文学方法との対立が激しくなり、1964年の第1111回大会に際して、幹事会の報告草案が[[部分的核実験禁止条約]]の支持を一方的に表明したり、アヴァンギャルドとリアリズムの統一という特定の創作方法を押しつけるようなものになろうとしたことに反対を表明し、同じく幹事であった[[江口渙]]と西野辰吉と共同して、相違点を保留して全体が合意できる一致点にしぼった対案を大会の場で提案しようとした。しかし、大会では対案の提出は認められず、大会の秩序を乱したという理由で、その後新日本文学会を除籍された。
 
 1965年の[[日本民主主義文学会|日本民主主義文学同盟]]創立の際には副議長に選出され、新日本文学会に代わる民主主義文学運動の団体として、運動の発展に貢献した。1971年には、1960年代の沖縄の現実を描いた長編『明けもどろ』で、[[多喜二・百合子賞]]を受賞した。この時期を中心にして、多くの長編小説を書き、沖縄や日本の現実の矛盾を深く追及する作品を書いた。1975年には、文学同盟の議長に就任し、1983年までその任にあった。