「吉原 (東京都)」の版間の差分

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== 江戸期の吉原 ==
周囲にお歯黒溝(どぶ)と呼ばれる幅2間(3.6 [[メートル|m]])程の堀が巡らされ、出入口は正面を山谷堀沿い日本堤側のみと、外界から隔絶されていた。[[遊女]]には[[花魁]](おいらん)・[[新造]]・[[禿#禿 (職業)|禿]](かむろ)などの身分があり、店にも茶屋を通さないと上がれない格式ある総籬(そうまがき:大店)から、路地裏にある小店までの序列があった。大店は社交場としての機能もあり、大名や文化人も集まる[[サロン]]的な役割を果たしたこともある。一流の遊女は和歌や茶道など教養を身に付けており、初めて上がった客と一緒に寝ることはなく、二度目の登楼で裏を返し、三度目で馴染みになり、ようやく枕を交わすことができるようになったという。遊客には武士や町人らがいたが、遊廓の中では身分差はなく、かえって武士は野暮だとして笑われることもあった。武士は編み笠をかぶり顔を隠していた。よく知られた川柳にも「人は武士 なぜ傾城(けいせい)に嫌がられ」とある(傾城とは城を傾けるような美女のことで、ここでは遊女を指す)。時代が下がるに従って、武士は経済的に困窮したため、町人が客層の中心になっていった。[[木材]]の商いで巨万の富を築いた[[紀伊国屋文左衛門]]や、金貸しである[[札差]]たちの豪遊が知られ、語り草にもなっている。吉原は江戸時代において文化の発信地としての役割も持っていたが、その実態は女性を前借金で縛る[[人身売買]]の場所であったことを忘れてはならない。
 
1765年、品川、板橋、千住の宿場町で飯盛女の規制がおこなわれ、各宿場が衰退し、あわせて、吉原の増員が許可された。1842年には吉原以外の場所での売春が禁止された。