「織田久長」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
編集の要約なし
1行目:
'''織田 久長'''(おだ ひさなが、生没年不詳)は[[室町時代]]の[[武将]]。織田伊勢守(または[[織田常竹]])の子。[[織田敏定]]、[[織田敏任]]、[[織田常寛]]等の父。正室は[[朝倉教景 (曖昧さ回避)|朝倉教景]]女。[[官位]]は[[伊勢国|伊勢守]]、[[兵庫]]助、弾正忠。[[通称]]は弾正左衛門。[[法名]]は常祐。[[清洲三奉行]]の一つ藤左衛門家の祖とされる。
 
[[永正]]年間(1504年~1520年)に久長は[[尾張国]][[丹羽郡]]に[[楽田城]]を築城。『[[妙興寺文書]]』の「天祥庵規式案」によると条文に「織田兵庫助久長」とあり、奥に久長の華押が見える。[[応仁]]2年([[1468年]])、[[荒木田氏経]]の書状への返書に「織田伊勢守久長」とある。