「色部久長」の版間の差分

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== 色部家断絶・赦免 ==
戦後に米沢藩は新政府軍によって藩主であった[[上杉斉憲]]は子である[[上杉茂憲|茂憲]]に[[家督]]を譲り[[隠居]]、4万石を召し上げられる処罰を受け、新政府軍より一連の戦犯について調査を命じられ、苦慮した結果、既に新潟の地で死亡している家老の色部を戦犯として届出をした。これに不審を抱く新政府首脳の中には[[三条実美]]のように「信賞必罰」の立場から米沢藩改易を唱える意見もあったものの、茂憲自らが[[東京]]に出頭して軍資金3万円を新政府に提供するなどの姿勢を取った結果、最終的にそれが認められ、奥羽諸藩では戦犯者が処刑される中、米沢藩では色部のお陰で処刑される者を出さずに済み、色部家は家名断絶されたが、明治16年に許されたという。
 
== 追念碑建立 ==