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'''松永 章'''(まつなが あきら、[[1948年]][[8月8日]] - )は[[静岡県]]出身の元[[サッカー選手]]、サッカー指導者。ゴールへの嗅覚の鋭さから「[[ハイエナ]]」の異名を取っで呼ばれたストライカーである
 
== 来歴 ==
[[静岡県立藤枝東高等学|藤枝東高校]]3年次にはキャプテンとしてチーム同校を戦後初となる[[全国高等学校サッカー選手権大会|選手権]]、[[全国高等学校総合体育大会|高校総体]]、[[国民体育大会|国体]]の3冠獲得に導き(なお、3年時の公式戦の記録は72戦70勝2分である)[[U-20サッカー日本代表|日本ユース代表]]に選出された。その後[[早稲田大学ア式蹴球部|早稲田大学]]を経て1971年に[[日本サッカーリーグ|JSL]]の[[日立製作所本社サッカー部|日立製作所サッカー部]] に入した。
 
日立では[[高橋英辰]]監督の厳しい指導の下「走る日立」の異名で呼ばれたチームの中心選手として1972年の日本リーグ初制覇に貢献。また、得点ランキングにも常に顔を出し、[[釜本邦茂]]と毎年激しい得点王争いを繰り広げながらも2年連続のJSL得点王(1972年、1973年)に輝き、1972年のリーグ優勝に貢献いた。JSL通算82ゴール得点は釜本、[[碓井博行]]に次ぐ第3位。1974年第13節[[トヨタ自動車工業サッカー部]]戦において、ダブル[[ハットトリック]](1試合6得点)のリーグ記録をマークし打ち立てている。
 
1973年から1977年にかけて[[サッカー日本代表|日本代表]]にも選ばれ[[モントリオールオリンピック]]予選などに出場しているが、同じポジション(純粋なセンターフォワード)に釜本邦茂という稀有な才能がおり、また自身も肝心な時[[骨折]]に見舞われるなどをして結果をせず、国際舞台ではAマッチ10試合出場2得点にとどまっている
 
引退後は母校の早稲田大学ア式蹴球部の監督を長く務め、1993年、1994年に[[全日本大学サッカー選手権大会]]、1996年に[[関東大学サッカーリーグ戦|関東大学リーグ]]優勝に導いている。
1973年、日本人として初のブラジル留学([[パルメイラス]])をしたとされている。
 
==エピソード==
*父親の仕事の付き合いの関係で高校卒業後は、[[名古屋ウエストフットボールクラブ|名古屋相銀]]に就職が内定していたが、まわり周囲の反対を受け早稲田大学に進学した。大学在学中に名相銀はチームが弱体化し、大学卒業の時期には今度はわれずを受ける事は無かった(のち2部落ちし解散)。就職の際には自身がファンであった[[東洋工業サッカー部|東洋工業]]のファンで入部を希望していたが、早稲田の韓国遠征の際にコーチとして帯同していた[[高橋英辰]]に世話った縁で日立入りを決めた。
*[[とんねるず]]の[[木梨憲武]]が少年時代に憧れサッカー選手の一人でもある
 
*1973年、日本人として初のブラジル留学([[パルメイラス]])をしたとされている。
*[[木梨憲武]]の憧れのサッカー選手の一人。
 
==所属クラブ==
*[[静岡県立藤枝東高等学校|藤枝東高校]]
*[[早稲田大学ア式蹴球部|早稲田大学]]
*1971年 - 1982年 [[日立製作所本社サッカー部|日立製作所]]
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==指導歴==
*早稲田大学ア式蹴球部 監督
 
==著書==