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これを察知した公子・子孔(穆公の子)は子駟を殺して自ら正卿となった。この時に当時・司馬を努めていた子国も殺される。子産は子孔の補佐をするようになるが、子孔もまた自ら君主になろうとしたので子産はこれに対して「子駟が悪いと言って殺したのに、子駟と同じことをしようとするのはいけない。」と諫めて、子孔もこれを受け入れた。
 
[[紀元前554年]]、子孔は簡公により誅殺され、子産がその後を受けて卿となった。子孔の死後の鄭は子罕の子の[[子展(鄭)|子展]]と子駟の子の子西とが政権を握る。
 
注釈 - 当時の階梯は「卿(けい) - 大夫(たいふ) - 士」となっており、卿は朝廷に出席して君主に対して意見を言うことが出来る。筆頭の卿を正卿と呼び、朝廷の主導を行い、宰相とほぼ同じである。大夫は領地を持った貴族だが、朝廷に出席する事は出来ない。士は卿や大夫の家来。(『[[春秋左氏伝]]』による。しかしこれには異説あり。ただしこの身分階層が通用しないものだとしても他の身分階層があったと考えられている。)
 
[[紀元前548年]]には子展と共に[[陳(春秋)|陳]]を攻めて陳の都を陥落させ、この功で六邑(村)を与えられるが、半分だけ受け取った。
 
子展は[[紀元前544年]]に死に、その子の[[子皮(鄭)|子皮]]が政権を執る。しかし子皮は自分よりも子産の方が才能があることを自覚していたので、翌[[紀元前543年]]に子産に正卿の地位を譲った。(ただし、正卿は子皮のままで、次席の子産は執政として実際の政治を取り扱ったとの説もある。)
 
==宰相として==