「三遊亭圓窓 (5代目)」の版間の差分

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最初は[[力士]]を志して[[大相撲]]の[[雷部屋]]に入門し、村田山という[[四股名]]を名乗っていたが、後に兄と同じ落語家の道を歩む事になる。明治の末に兄と同じ[[橘家圓蔵 (4代目)|4代目橘家圓蔵]]に入門し、兄の前座名[[橘家二三蔵]]を名乗る。
 
二つ目で[[三遊亭圓彌]]、[[1920年]]12月に[[橘ノ圓都|三遊亭圓都]]で真打昇進。[[1925年]]1月に兄が5代目三遊亭圓生を襲名し、義理の甥である4代目三遊亭圓窓(後の6代目三遊亭圓生)が兄の前名[[橘家圓蔵|6代目橘家圓蔵]]を襲名したため、空席になった圓窓の名を継ぎ5代目三遊亭圓窓を襲名。
 
[[1928年]]に[[桂文治 (8代目)|8代目桂文治]]門下で[[桂文生]]となる。その後一旦廃業したが、10年ほど後に復帰して[[桂文楽 (8代目)|8代目桂文楽]]門下で桂圓窓となる。[[1945年]]5月に[[三遊亭圓左|3代目三遊亭圓左]]襲名するがし周囲を驚かせ、[[1946年]]5月には圓窓に複名。後にまた圓左を名乗ったが[[1951年]]5月には再び圓窓に戻っている。
 
1962年12月31日死去。[[享年]]73。圓窓の死後、[[三遊亭圓窓#6代目|6代目三遊亭圓窓]]は6代目圓生の弟子が後に襲名し、圓彌も6代目圓生の弟子が名乗った。