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'''高保融'''('''こう ほゆう'''、[[920年]]
[[後漢]][[劉承祐|隠帝]]の[[乾祐]]元年([[948年]])、南平王であった[[高従誨]]が死去すると、その地位を継ぎ、後漢より荊南節度使[[同中書門下平章事|同平章事]]兼[[侍中]]に封じられた。そして[[後周]][[郭威|太祖]]の[[広順]]元年([[951年]])には渤海郡王に、[[顕徳]]元年([[954年]])には南平王に冊封じられた。
史書によれば高保融は凡庸な人物であり、朝政の重大事は全て弟の[[高保勗]]にゆだねていた。[[趙匡胤]]が宋を建国した[[建隆]]元年([[960年]])には、その国勢を恐れ1年に3度も朝貢の使者を派遣している。同年病没すると[[太尉]]と貞懿王の[[諡号]]を贈られた。子の[[高継沖]]は幼少であったため、弟の[[高保勗]]がその地位を継承した。
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▲{{先代次代|[[荊南]]の[[中国帝王一覧|皇帝]]|第3代:948年 - 968年|[[高従誨]]|[[高保勗]]}}
▲[[Category:中国史の人物|こうほゆう]]
▲[[Category:宋代の人物|こうほゆう]]
▲[[Category:920年生|こうほゆう]]
▲[[Category:960年没|こうほゆう]]
[[zh:高保融]]
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