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'''高継沖'''('''こう けいちゅう'''、[[943年]]
[[北宋]][[建隆]]3年([[962年]])、高保勗が病没すると遺命によりその地位を継承した。後に宋朝より荊南[[節度使]]に任じられている。
同年、[[湖南省]]の武平節度使[[周行逢]]もまた死去し、僅か11歳の[[周保権]]が継承したが、その地域では大将[[張文表]]が反乱を起こす内紛が発生し、周保権は宋朝に求援を求めている。建隆4年([[963年]])、宋軍は張文表討伐のために荊南の地を通過したが、この機会に乗じ荊南の都城である江陵(現在の[[湖北省]][[江陵]])を影響下に置こうとし、高継沖は宋朝に帰順することにより荊南は滅亡した。
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[[開宝]]6年([[973年]])、武寧節度使のまま高継沖は死去した。
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[[Category:十国の君主]]
[[Category:943年生]]
▲{{先代次代|[[荊南]]の[[中国帝王一覧|皇帝]]|第5代:962年 - 963年|[[高保勗]]|(なし)}}
▲[[Category:宋代の人物|こうけいちゆう]]
▲[[Category:943年生|こうけいちゆう]]
▲[[Category:973年没|こうけいちゆう]]
[[zh:高繼沖]]
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