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===WRC===
ミキの黄金期は80年代の[[ランチア]]時代で、[[ランチア・ラリー037]]、[[ランチア・デルタS4|デルタS4]]でWRC参戦をきっかけに、87年のグループA草創期はデルタHF4WDでWRCのトップコンテンダーの仲間入りを果たす。そして、翌88年に悲願のWRCタイトルを獲得。
89年も[[トヨタ]]との争いが激しくなる中、地元サンレモから投入されたニューマシン、デルタHFインテグラーレ16Vを操り、この年、トヨタに移籍した新鋭、[[カルロス・サインツ]]見事地元破って勝利を飾るその年のタイトルも獲得し、今日に至るまで彼以外のイタリア人チャンピオンは現れていない
 
1990年にフランスの新人、ディディエ・オリオールやユハ・カンクネンらのランチア加入により、以前のような速さでラリーを圧倒することはなくなったものの、ミキは持ち前のセッティング能力で巧みなラリー運びで勝利を挙げていく。
 
1991年は長年在籍したランチアを離れ、[[フォード]]に移籍するも、[[フランス]]の若手、[[フランソワ・デルクール]]を中心としたチーム運営になかなか思うような成績を出せなくなる。結果、フォード時代にあげた勝利は1993年のアクロポリスのみにとどまる。
 
1995年、フォが[[ベルギー]]のプライベート・チーム、RASスポールにワークス参戦委託を表明すると、RASの生え抜きであった[[ブルーノ・ティリー]]に押し出される形でチームを離脱。これが実質的なWRC引退となってしまった。
 
WRCを離れた後はイタリアのタイヤメーカー、[[ピレリ]]の開発ドライバーを務めたほか、ラリーレイドの[[三菱自動車工業|三菱]]のワークスドライバーとして[[ダカールラリー]]や[[UAEデザートチャレンジ]]などに参戦した。1999年のUAEデザートチャレンジとチュニジアラリーではカミオン部門で優勝している。