「劉英 (後漢)」の版間の差分

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'''劉英'''('''りゅう えい'''、生年不詳 - [[71年]])は、[[中国]]の[[後漢]]の[[光武帝]]の三男。母は許美人。[[明帝 (漢)|明帝]]の異母兄にあたる。[[建武 (漢)|建武]]17年([[41年]])に楚王の位を与えられたため、一般には「'''楚王英'''」(そおうえい)の呼び名で知られる。
 
[[65年]]([[永平 (漢)|永平]]8年)のことであるが、英が謀反の意志ありとして誣告されるという事件が発生した。それに対する明帝の措置は、絹を献上することによる贖罪制度であった。その時の詔に、次のような文言が見られる。
 
「楚王は、黄老(=黄帝・老子)の微言を誦して、'''浮屠'''(=仏教)の仁祠を尚ぶ。潔斎すること三月にして、神と誓を為す。何ぞ嫌(うたが)わん、何ぞ疑わん。当に悔吝有るべし。其れ贖を還し以って'''伊蒲塞'''(=優婆塞)・'''桑門'''(=沙門)の盛饌を助けしめん」(『[[後漢書]]』巻42, 楚王英伝)