「ジャン・ピエール・ボワイエ」の版間の差分

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== 生い立ち ==
ボワイエは[[プロヴァンス]]人の父と[[ギニア]]出身の母の子で自由な[[ムラート]]として[[ポルトープランス]]で生まれ、父の影響で[[フランス]]の士官学校で教育を受けた。その後フランス共和国軍に加わり、短期間で大隊指揮官に昇格した。次いで彼はフランスの代表部に加わり、白人と[[王党派]]に対する戦いに加わるために[[サン=ドマング]]に戻った。この直後にサン=ドマングは[[イギリス軍]]の侵攻を受けた。そして[[ジャクメル]]で[[アンドレ・リゴー]]将軍が率いる部隊に参加した<ref name=baur>{{cite book|first=John Edward|last=Baur|year=1947|title=The Journal of Negro History||edition=|pubrisher=Association for the Study of African-American Life and History, Inc.|location=|pages=pp 307-353|id=}}</ref>。リゴーら全ムラート軍は南部で[[トゥーサン・ルヴェルチュール]]に対し戦い敗れ、ボワイエは新たな友人リゴーらとフランスへ逃れた。
 
途中ボワイエは生涯に一度だけ[[アメリカ合衆国|米国]]に立寄ったが、いつもその時のことをありありと思い浮かべた<ref name=baur/>。米国滞在時に[[クエーカー]]とその慈善的な生き方に触れ、深く感銘を受けた。米仏の危機が去るとボワイエはフランスへ渡り、[[1801年]]まで[[パリ]]で過ごした。この間にフランスがムラートの権利を奪い、サン=ドマングで奴隷制を再開するつもりであったことは覆いようもなかった。ボワイエらは[[1802年]]に[[シャルル・ヴィクトール・エマニュエル・ルクレール|ルクレール]]と帰還した。ボワイエは座して見守ってはいなかった。[[アレクサンドル・ペション]]らに加わり、ムラートと黒人の連合がフランスの支配を終わらせた<ref name=baur/>。
 
== 独立と賠償 ==
ハイチは[[1804年]]に独立し[[ジャン=ジャック・デサリーヌ]]が皇帝となるが[[1806年]]に倒され、[[アンリ・クリストフ]]の支配する北部の[[ハイチ王国]]とペションの支配する南部のハイチ共和国とに分かれた。クリストフが自殺するとペションの後継者となっていたボワイエはハイチ王国を併合した。[[1821年]]に[[スペイン領サントドミンゴ|サントドミンゴ]]が[[スペイン]]から独立すると侵攻して[[1822年]]2月にこれも併合した。ボワイエは[[1843年]]にエリート支配層の支持を失って追放されるまで[[イスパニョーラ島]]全島を支配した<ref>{{cite book| first=Jan| last=Rogozinski | year= 1999| title= A Brief History of the Caribbean| edition= Revised| publisher=Facts on File Inc.| location=New York| pages= pp 218-220| id= ISBN 0-8160-3811-2 }}</ref>。