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'''宣王'''(せんおう
[[田臣思]]、「それはいけません。そもそも、韓
宣王は、「なるほど」と納得し、韓の使者に承知の旨を告げて帰した。韓は、斉はこっちのものとひとりがてんし、五たび戦ったが、五たびとも敗れ、斉に訴えてきた。そこで、斉は、軍旅を催し魏をうち[[馬稜]]で散々に打ち破った。
▲[[紀元前342年]]、[[韓]]の[[南稜]]が魏に伐たれた際、韓は斉に救いを求めてきた。宣王は、重臣たちを召して謀った。<br>
▲宣王、「すぐ救うか、ゆるゆる救うか、どちらが好都合だろう」<br>
▲[[張丐]]は、「ゆるゆる救えば、韓は挫けて、[[魏 (戦国)|魏]]に降りましょう。すぐ救うにこしたことはありません」と言ったが、<br>
▲[[田臣思]]、「それはいけません。そもそも、韓・魏両軍が疲れぬうちに救いに出れば、こちらが韓にかわって魏に攻められ、逆に韓に指図を仰ぐことになるでしょう。そのうえ、由来、魏には、韓を破ろうという宿志があります。韓は、滅びるとみれば、かならず東のかた斉に訴えてまいりましょう。そこで、密かに韓と親交を結び、そしてゆるゆる魏の疲れに乗ずる、というようになされば、お国は重みを加え、利を得られ、お名は尊ばれることとなりましょう。」と言う。<br>
▲宣王は、「なるほど」と納得し、韓の使者に承知の旨を告げて帰した。韓は、斉はこっちのものとひとりがてんし、五たび戦ったが、五たびとも敗れ、斉に訴えてきた。そこで、斉は、軍旅を催し魏をうち[[馬稜]]で散々に打ち破った。<br>
魏は敗れ、韓は弱まり、韓・魏の国君は、田嬰のとりもちで、北面して宣王に朝貢したのだった。
ところで、靖郭君は、[[斉貌弁]]よく待遇した。食客や[[孟嘗君]]が諌めたが、「我が家の財を散じても貌弁先生を厚遇するぞ」と激怒し、最上の礼を以って厚遇した。威王が崩御し、宣王がたったが、宣王は大いに靖郭君を嫌いぬいており、靖郭君もそれがわかっており封邑[[薛]]に去った。それからしばらくして、貌弁は暇をもらい、宣王に拝謁しに行かせてほしいと言い出した。靖郭君は貌弁がなにしたいかを理解し、
「王はいたって私がお嫌いだ。あなたが行けば、命を落とされるのは必定です」と言うが、
貌弁は、「わかっております、是非いかせてください」といいふりきって行ってしまった。<br>▼
貌弁が宣王に拝謁すると、<br>▼
宣王、「あなたは、靖郭君のお気に入りで、何事も重用されておるのだろう」と。<br>▼
貌弁、「確かに私は靖郭君に気に入られてますが、何事も聞き入れられたということははございません。王が太子の頃このようなことがございました。わたしは靖郭君に、『太子は不尽の相、頤が大きすぎますし、豕のようにぬすみみなさいます。このような人物は、道に背いたことをするもの。太子を廃されて、あらためて衛姫の嬰児の郊師さまをおたてになるにこしたことはございません』と申し上げますと、泣いておおせになりました。『それはできない。私には忍びない』と。もしこのとき私のことばを聞きいれておいでになれば、今日のご心配は無かったに違いありません。これがその一つ。薛にお越しになると、[[楚 (春秋)|楚]]の[[昭陽]]は、数倍の土地を、薛と交換しましょうと申し入れてまいりました。手前は、『お受けなされよ』と申し上げますと、靖郭君は、『薛はご先代から拝領したもの。今の王にお憎しみをこうむっておろうと、このわたしとして、ご先代に申し訳がたとううか。しかも、ご先代の霊廟が薛にはある。わたしとして、どうして、楚にご先代の霊廟をやれよう』とおおせられ、これままた手前のことばを聞きいれようとはなさいませんでした。これがその二つでございます。」<br>▼
宣王は大息し、「靖郭君が、わたしをおもってくれていたとは。わたしは若年で、いっこうに気づかなかった。ひとつ、わたしのために、靖郭君をこらせるよう、骨をおってははくれないか」といい、<br>▼
貌弁、「かしこまりました」とこたえた。<br>▼
威王の衣冠をつけ、その剣を帯びて靖郭君は赴き、宣王は郊外まで出迎え、亡き父に生き写しの靖郭君をみて、涙をながした。靖郭君に宰相になるよう請うたが、靖郭君は辞退した。しかし、結局やむをえず宰相の印を授かった靖郭君であるが七日ほどして病と称し、辞任しようとした。宣王は許さなかったが三日目に聞きいれた。▼
▲貌弁、「確かに私は靖郭君に気に入られてますが、何事も聞き入れられたということははございません。王が太子の頃このようなことがございました。わたしは靖郭君に、『太子は不尽の相、頤が大きすぎますし、豕のようにぬすみみなさいます。このような人物は、道に背いたことをするもの。太子を廃されて、あらためて衛姫の嬰児の郊師さまをおたてになるにこしたことはございません』と申し上げますと、泣いておおせになりました。『それはできない。私には忍びない』と。もしこのとき私のことばを聞きいれておいでになれば、今日のご心配は無かったに違いありません。これがその一つ。薛にお越しになると、[[楚 (春秋)|楚]]の[[昭陽]]は、数倍の土地を、薛と交換しましょうと申し入れてまいりました。手前は、『お受けなされよ』と申し上げますと、靖郭君は、『薛はご先代から拝領したもの。今の王にお憎しみをこうむっておろうと、このわたしとして、ご先代に申し訳がたとううか。しかも、ご先代の霊廟が薛にはある。わたしとして、どうして、楚にご先代の霊廟をやれよう』とおおせられ、これままた手前のことばを聞きいれようとはなさいませんでした。これがその二つでございます。」
▲威王の衣冠をつけ、その剣を帯びて靖郭君は赴き、宣王は郊外まで出迎え、亡き父に生き写しの靖郭君をみて、涙をながした。靖郭君に宰相になるよう請うたが、靖郭君は辞退した。しかし、結局やむをえず宰相の印を授かった靖郭君であるが
また、宣王はよく学を奨励し、稷下の賑わいは威王の頃同様天下に轟き、有志の士や学者が斉に集まった。[[孟子]]も厚遇し、その助言で[[燕 (春秋)|燕]]を制圧したこともあった。しかし、この燕制圧策は結果的には失敗し、燕に大きな恨みを植えつけることとなった。靖郭君死後、[[孟嘗君]]を宰相にすえ、斉の国を充実させ国力をたかめた。
参考:[[戦国策]]
{{先代次代|[[田斉]]の[[中国帝王一覧|王]]|第4代:君主<br />|[[威王 (斉)|威王]]|[[湣王 (斉)|湣王]]|}}
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