「中山門流」の版間の差分

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日高は八幡荘の領主で父・太田乗明や師・日常にとっては旧主にあたった[[千葉胤貞]]を[[俗別当]]として政治的な保護を受けた。また、日高の後継者[[日祐]](3世)は、胤貞の[[猶子]]であったが、僧侶としての識見にも優れており、門流発展に大きく貢献した。有力[[守護]]・[[御家人]]であった[[千葉氏]]の保護を受けた事で、中山門流は[[南関東]]全域や[[京都]]・胤貞が守護を務めた[[肥前国]]に多くの[[末寺]]が建立された。これらの末寺には法華経寺から「総導師職」が派遣されて指導にあたり、優れた学僧を輩出したため、大いに栄えた。
 
だが、[[南北朝_時代 (日本)|南北朝]]の戦乱期に仏教集団が政治的影響を受けていく事は避けられない事であり、日蓮の諸系統でも生き残りを図るために同様の事が行われた。法華経寺をはじめとして厳格な修行で知られた中山門流が様々な政治勢力や他宗派とも交流(例えば、[[建武_(日本)|建武]]3年([[1336年]])に法華経寺の寺宝である[[立正安国論]]が[[律宗]]寺院であった鎌倉・普恩寺(現在は廃絶)に貸し与えられて書写という記録がある)し、庶民信仰を積極的に受け入れる選択も行ったのも教団そのものが生き残ることで日蓮の教えを守り、後世に伝える事を最優先した結果であった。だが、これに対する批判も強く、[[日英_(中山門流)|日英]]門下の[[日親]]が「[[不受不施義]]」を唱えた背景には、こうした門流のあり方への反発があったと言われている。
 
戦国時代に入ると、千葉氏の衰退とともに中山門流も衰微し、[[徳川家康]]の[[江戸城|江戸]]移封後には法華経寺寺宝の大量流出が明らかとなった。これに激怒した家康は[[安土宗論]]でも知られる[[日珖]]を法華経寺貫首として送り込み、以後[[本法寺 (京都市)|本法寺]]・[[頂妙寺]]・[[妙国寺]]の[[上方]]3ヶ寺の持ち回りで法華経寺貫首を選ぶこととしてこれまで門流の中枢を占めていた関東系諸寺の影響力を削減した。とはいえ、これによって[[江戸幕府]]の保護を得る事に成功した中山門流は[[寛永]]年間には132の末寺を擁するに至り、特に法華経寺は[[祈祷]][[修法]]の[[霊地]]として名声を得るに至ったのである。