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== 経歴 ==
=== 軍歴 ===
ドイツ南西部・[[ヴュルテンベルク王国]]の[[ルートヴィヒスブルク]]に、連隊主計官の息子として生まれる。[[1884年]]の[[アビトゥーア]]合格後にヴュルテンベルク王国軍に入隊。任官試験に合格後陸軍大学で学び、[[1899年]]に[[プロイセン参謀本部|参謀本部]]に配属され、以後17年間を鉄道兵站の専門家として過ごすことになる。[[1912年]]に鉄道部長に就任し、[[1914年]]に始まる[[第一次世界大戦]]でも戦線移動に伴う膨大な鉄道輸送業務の責任者となった。[[1916年]]に戦時食糧庁に出向、同年11月1日に中将に昇進し、[[プロイセン王国]]軍事省次官及び副大臣に就任。この職責で[[帝国議会]]に勤労奉仕法案を提出した。陸軍最高指導部と対立し、翌年8月に[[ウクライナ]]にある前線に左遷された。
 
[[1918年]]10月29日、ドイツの敗戦を目前にして[[エーリッヒ・ルーデンドルフ]]が参謀次長を辞すると後任に就任し、名目上の最高司令官である参謀総長[[パウル・フォン・ヒンデンブルク]]元帥の下で全ドイツ軍の撤収と復員の責任を負うことになる。11月に[[ドイツ革命]]が発生すると、彼は革命の[[ボルシェヴィキ]]化を防ぐため、[[フリードリヒ・エーベルト]]率いる穏健派の[[ドイツ社会民主党]](SPD)が主導する臨時人民代表委員会を支持した。11月10日にグレーナーはエーベルトと電話協議して、軍部はエーベルトの暫定政府に従うことを表明した。これによりエーベルト暫定[[ドイツの首相|首相]]は強力な後ろ盾を得て、政権が安定化することになる。軍部に多かった君主制の支持者はのちのちまでグレーナーを「裏切り者」と非難したが、彼は「革命という事態の中では、新しいドイツにプロイセンの伝統を活かす最善の道だった」と反論した。
 
=== 政界に転身 ===
翌年6月の[[ヴェルサイユ条約]]締結もグレーナーは承認した。同月、ヒンデンブルクの辞任を受けて参謀総長に就任した。しかし9月にエーベルトの反対を押し切って軍を辞し、短い引退期間ののち政界に転身する。[[1920年]]6月に[[コンスタンティン・フェーレンバッハ|フェーレンバッハ]]内閣に無所属の交通大臣として初入閣してから、[[1923年]]まで四次の内閣でその職を務めた。[[1928年]]1月に[[ヴィルヘルム・マルクス|マルクス]]内閣の[[オットー・ゲスラー]]国防相が秘密軍備計画で辞職に追い込まれると、その後任として再入閣した。
 
[[1931年]]には[[ハインリヒ・ブリューニング|ブリューニング]]内閣で内務大臣を兼任。しかし内相として[[1932年]]5月に[[ナチス]]の[[突撃隊]]を禁止すると、ナチスの与党への取り込みを図る国防次官[[クルト・フォン・シュライヒャー]]と対立した。軍部に勢力を持ちヒンデンブルク[[ドイツの大統領|大統領]]の側近でもあるシュライヒャーの要求には逆らえず国防相を辞任。直後のブリューニング内閣退陣で内相の座も失った。その後は公の場に出ることもなく、1939年に[[ポツダム]]郊外の自宅で死去した。
 
グレーナーは二度結婚し、あわせて一男一女をもうけた。先妻(1926年死去)が1900年に産んだ娘は、1948年に[[婦人運動]]団体の会長になり、[[男女同権]]運動で活躍した。