「織田長次 (長兵衛尉)」の版間の差分

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== 生涯 ==
信長の末子。生年は[[天正]]2年([[1574年]])から10年([[1582年]])の間であると思われる。生母は不詳だが、幼名。天正10年「縁」が「ふち」とも読め、[[興雲院本能寺の変]]お鍋の方の「鍋」、それに因んつけられた[[織田信長|信長]]が死去したため、[[豊臣秀吉|羽柴秀吉]]の「酌」[[馬廻]]セットにること、ま諱も信吉。豊臣政権期「'''信動向は不明。[[慶''']]5年([[1600年]])「'''信'''」[[関ヶ原の戦い]]では西軍'''秀与し、兄・[[織田信'''の「'''|信'''」」]]似て「'''信長'''の「'''長'''」に'''秀次'''の「'''次'''」」とも解釈できここでもセットとなることから、さら多く[[大谷吉継]]場合おいて信吉所属し平塚為広行動を共に同陣していることから戦ったがお鍋9月15日方の子本戦あるという説がある。最低でも、母親がお鍋大谷軍壊滅際、為広ら近い位置とも戦死し側室と考えられる(『[[武徳安民記]]』)
 
===出仕===
天正10年の[[本能寺の変]]で父[[織田信長|信長]]が死去したため、[[豊臣秀吉|羽柴秀吉]]の家臣となり、その[[馬廻]]となった。豊臣政権前期における動向は不明だが、[[大道寺直次]]、[[田中吉次]]などと同じく末尾に「次」のつく諱から、[[豊臣秀次]]に付属されていた可能性が考えられる。おそらく秀次が三好信吉から羽柴秀次に改名した天正12年([[1584年]])以降に出仕・元服したのであろう。
===元服===
'''信次'''でなく'''長次'''である(信長の叔父[[織田信次]]は[[1574年]]に討ち死にしており、同名になるのを避ける理由はみられない)ことから、織田氏と豊臣氏の力関係が完全に逆転した天正末期から文禄年間の元服であり、信長の「信」の後に秀吉由来とみられる「秀」「吉」の字がつく織田信秀(大洞)や信吉より後と思われる。可能性の高い時期としては[[天正]]18年([[1590年]])の[[織田信雄]]の改易後、あるいは[[文禄]]元年([[1591年]])の秀次の関白就任後が挙げられる。記録に残る名乗りから、羽柴姓は許されなかったと思われる(羽柴姓を許された信長の息子は全員、1590年以前に元服している)。
===官位、所領===
[[慶長]]3年([[1598年]])の醍醐の花見においては兄信吉、[[平塚為広]]らとともに秀吉側室[[三の丸殿]]に随従したといわれる。秀次事件との関連は不明だが、このころすでに秀吉の[[馬廻]]となっていたようである。官位、知行高、所領の位置は不明であるが、同じく馬廻の兄[[織田信貞]]が1000石であること、後述するが戦死の際の状況からみておそらく1000石級、関ヶ原での動向、推定される経歴から判断して近江と思われる。官位は上の兄信吉、信貞、[[織田信好]]がいずれも[[従五位下]]であることから、五位相当の官に任官していた可能性が高い。
===最期===
[[慶長]]5年([[1600年]])の[[関ヶ原の戦い]]では兄・[[織田信吉]]とともに西軍に与し、[[大谷吉継]]の隊に所属し平塚為広、信吉とともに兵五百余を率いて大谷軍の前備えを成した。9月15日の本戦で大谷軍が[[小早川秀秋]]の軍勢に突入した際、『能兵百騎ハカリ』とともに戦死した(『[[武徳安民記]]』『[[織田家雑録]]』)。出陣・戦死が記録に残っていることから、微禄、小身の士であったとは思われない。また『武徳安民記』で戦死が記録された箇所では筆頭に挙げられており、すでに名の知られた武士であった様子が伺える。おそらくは[[小牧・長久手の戦い]]以降の合戦に従軍していたと思われる。
 
== 関連項目 ==
* [[織田信長]]
**[[興雲院]]
**[[織田信吉]]
* [[豊臣秀次]]
** [[田中吉次]]