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{{改名提案|足利義稙|date=2008年2月}}
{{武士/開始|足利義稙}}
{{武士/時代|[[室町時代]]後期から[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]}}
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{{武士/子|養子:''[[足利義維]]''}}
{{武士/終了}}
'''足利 義'''('''義''')(あしかが よしため(よしたね))は、[[室町幕府]]の第10代[[征夷大将軍|将軍]](将軍職在位:[[延徳]]2年([[1490年]])-[[明応]]3年([[1493年]])。[[永正]]5年([[1508年]]) - [[大永]]元年([[1521年]]))。
 
== 略歴 ==
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[[延徳]]元年([[1489年]])、室町幕府第9代将軍の[[足利義尚]]が[[近江国|近江]]の[[六角高頼]]征伐の在陣中に死去した後、伯父の義政と和睦した父・義視と共に逼塞先の[[美濃国|美濃]]の[[土岐成頼]]のもとから上洛し、足利義政の[[養子]]となって延徳2年([[1490年]])に第10代将軍に就任した。しかし政治の実権は父に握られ、父が延徳3年([[1491年]])に死去した後は、[[畠山政長]]の支援を背景に権力の確立を企図するが、管領の細川政元と義政未亡人の日野富子らと対立した。
 
明応2年([[1493年]])、[[畠山義豊]]を討伐するために[[河内国|河内]]に出陣していたが、その間に京都では細川政元と日野富子によって義政・義視の弟に当たる[[足利政知]]の子・[[足利義澄]]が新将軍として擁立されたため、義材は将軍職を廃されることとなった([[明応の政変]])。義は幽閉されたが、側近らの手引きで[[越中国]]の[[放生津]]に下向し、[[畠山政長]]の家臣・[[神保長誠]]を頼ったため、[[越中公方]](越中御所)と呼ばれた。
 
明応8年([[1499年]])に政元派との和睦交渉が進展したという認識から、義尹(義材より改名)は[[越前国|越前]]の[[朝倉貞景]]のもとへ移った。ところが政元派との和睦は不調となり、朝倉貞景や政長の子である[[畠山尚順]](尚慶)と同調して軍事攻撃による上洛へ方針転換したが敗北し、周防の[[大内義興]]を頼って落ち延びた。
 
永正4年([[1507年]])に細川政元が[[暗殺]]されると、義尹は将軍への復帰をもくろみ、永正5年([[1508年]])4月に[[大内義興]]や[[細川高国]]の支援を得て[[中国地方]]や[[九州]]の諸大名と共に上洛し、義澄を廃して再び将軍になった([[永正の錯乱]])。その後、義澄やその一派と将軍職をめぐって抗争するが、永正8年([[1511年]])8月の[[船岡山の戦い]]直前に義澄が病死し、さらにこの戦いにも勝利したため、義尹改め義稙の将軍職が確定した。
 
しかし大永元年([[1521年]])、管領の細川高国と対立して出奔した。高国は新将軍には義澄の子・[[足利義晴]]を擁立した。義稙は[[和泉国|和泉]]から[[淡路国|淡路]]に逃れ、ここで再挙を図って高国と抗争するが敗れ、大永3年(1523年)4月9日([[4月7日 (旧暦)|4月7日]]とも)に[[阿波国|阿波]]撫養(現在の[[鳴門市]])で死去した。[[享年]]58。
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{{室町幕府将軍}}
 
[[Category:足利氏|よしたね]]
[[Category:征夷大将軍|あしかか よしたね]]
[[Category:1466年生|あしかか よしたね]]
[[Category:1523年没|あしかか よしたね]]
 
[[de:Ashikaga Yoshitane]]