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'''紫川事件'''(むらさきがわじけん)とは、[[昭和]]38年([[1963年]])12月8日夜、[[福岡県]][[北九州市]]の[[紫川]]河川敷で、[[暴力団]]・三代目[[山口組]][[地道組]][[安藤組]]組員2人が、北九州の暴力団・[[工藤組]](後の[[工藤會]]。組長は[[工藤玄治]])組員の[[坂下繁貴]]ら数人に撲殺された事件。この事件を切っ掛けにして、北九州市で、市民や[[福岡県警]]による「暴力追放キャンペーン」が展開された。
{{未検証}}'''紫川事件'''(むらさきがわかわじけん)は1963年、山口組三代目若頭、地道行雄若衆だった「田上健一」が殺された事件。
 
== 紫川事件発生までの経緯 ==
==概要==
[[昭和]]25年([[1950年]])、[[北九州市]][[若松区]]の[[暴力団]]・[[梶原組]](組長は[[梶原国弘]])の組員が、[[工藤組]][[草野組]]・[[草野高明]]組長(後の工藤會二代目)の弟を刺殺した。梶原組と草野組は、和解することなく対立を続けた。
[[山口組]]と対立する九州一の組織「[[工藤会]]」との抗争で、当時工藤会は、若頭「草野高明」を筆頭に(後の草野一家初代総長)[[北九州]]を地盤に根付いていた。前年の「博多事件」の余韻を残したまま、山口組×工藤会の抗争が新たに勃発。
 
昭和38年([[1963年]])5月、三代目[[山口組]][[若頭]]・[[地道行雄]]は、北九州市若松区の梶原組、[[安藤組]](組長は[[安藤春男]])を傘下に収めた。
詳しい内容は、歴史が古い為異なる噂しか無いが、当時の「田上健一」は、若干27歳にして、事務所を持ち若集も70人程抱え、素人受けの良い人情に満ちた任侠一筋の男であった。極道史上類を見ない程 壮絶な「リンチ殺人」指導者であった当時工藤会、草野高明若頭は、この抗争により、後に殺人教唆で12年の刑に服した。
 
同年7月、地道行雄は、北九州市の[[長畠組]](組長は[[長畠広]])を傘下に収めた。
{{DEFAULTSORT:むらさきがわじけん}}
 
その後、梶原国弘は、地道行雄を通して山口組・[[田岡一雄]]組長に、北九州市での[[力道山]]の[[プロレス]]興行実施を依頼した。[[日本プロレス協会]]副会長だった田岡は、すぐに了承した。これを知った草野高明は、梶原に対抗して、北九州市で[[北原謙二]]の公演を開催することを決めた。
 
同年9月10日、山口組[[菅谷組]]・[[菅谷政雄]]組長が、北九州市[[小倉区]]に、[[芦原興行社]](組長は[[芦原章男]]。本名は'''鄭成伍''')を設立した。芦原興行社の事務所は、北九州市の暴力団・[[工藤組]]幹部・[[前田国政]]の経営する[[前田プロダクション]]事務所の真向かいに置いた。工藤組は地道行雄に抗議した。地道行雄は、工藤組の抗議に応じ、芦原興行社を北九州市から撤収させることを約束した。地道は菅谷を地道組事務所に呼び、「芦原興行社の看板を下ろすように」と指示した。地道と菅谷は口論となったが、最終的に菅谷が折れた。菅谷は、わざと地道の指示を額面通りに行い、芦原興行社の事務所から、代紋入りの看板を下ろしただけで、事務所を撤収させなかった。芦原興行社は、[[キャバレー]]などでのショーを[[プロデュース]]した。工藤組組員らが、芦原興行社に乗り込み、芦原章男と睨み合いになった。
 
同年10月1日、草野組は、[[石松組]]の応援を受けて、「北原謙二ショー」を開催した。同日、ショーの閉演後、ショーの警備に当たっていた石松組組員が、梶原組組員に銃撃され、重傷を負った。
 
[[福岡県警]]は、梶原組と草野組の暴力団抗争に備えて、700人の警官を動員して警戒に当たった。山口組は組員200人を北九州市に派遣した。前田国政は、北九州に来た菅谷組若頭・[[上田亨]]と話し合いを持ったが、話し合いは決裂した。
 
同年10月21日、梶原組は、山口組の応援を受けて、力道山のプロレス興行を行った。
 
同年10月29日夜、前田国政ら工藤組組員が、芦原興行社に殴り込みをかけ、芦原興行社の組員に暴行を加えた。
 
同年11月28日、北九州市小倉区のクラブ「美松」前で、前田国政が、菅谷組組員2人に射殺された。
 
同年12月1日、福岡県警は、前田国政を射殺した菅谷組組員2人を[[逮捕]]した。
 
== 紫川事件 ==
 
同年12月8日夜、工藤組組員・[[坂下繁貴]]らが、芦原興行社組員と勘違いして、地道組安藤組組員2人を拉致した。坂下繁貴らは、北九州市[[紫川]]の河川敷で、安藤組組員2人を石で撲殺し、遺体を紫川に投げ捨てた。
 
同年12月9日午前8時半ごろ、小倉区[[区役所]]職員が、小倉区北方幸町の紫川新地井ゼキの下流約20メートルで、撲殺された安藤組組員2人の遺体を発見した。
 
この事件を切っ掛けにして、北九州市で、市民や福岡県警による「暴力追放キャンペーン」が展開された。
 
 
== 紫川事件後 ==
 
田岡一雄が地道行雄を説得し、山口組[[山健組]]・[[山本健一 (ヤクザ)|山本健一]]組長が菅谷政雄を説得した。さらに、田岡は、地道を通じて、[[大野会]]・[[大野鶴吉]]会長に工藤組との手打ち交渉を依頼した。
 
同年12月21日、田岡一雄は自宅で新築祝いを行った。この席で、地道行雄と菅谷政雄は和解した。田岡は、地道に対する処分も、菅谷に対する処分も見送った。
 
同年12月24日、別府市で、山口組と工藤組の手打ち式が行われた。仲介人は大野鶴吉、盃人は[[津村和麿]]。立会人は、工藤組側が[[竹田辰一]]で、山口組側が[[前山真砂好]]だった。山口組からは[[舎弟頭]]・[[松本一美]]、地道行雄、菅谷政雄、山本健一ら15人が出席した。工藤組からは[[松岡武]]ら15人が出席した。
 
== 参考文献 ==
*[[正延哲士]]『伝説のやくざ ボンノ』[[幻冬舎]](幻冬舎アウトロー文庫)、[[1998年]]12月、ISBN 4-87728-676-4
*[[溝口敦]][[笠井和弘]][[ももなり高]]『血と抗争! 菱の男たち 第9巻』[[竹書房]]、[[2007年]]1月、ISBN 4-8124-6543-5
 
 
 
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[[Category:暴力団抗争事件]]
[[Category:山口組]]
[[Category:昭和時代の殺人事件 (戦後)]]