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[[Image:Ulla Schmidt (2007).jpg|thumb|ウラ・シュミット]]
'''ウルラ(ウラ)・シュミット'''('''Ursula “ Ulla” Schmidt'''、[[1949年]][[6月13日]] – )は、[[ドイツ]]の[[政治家]]。[[ドイツ社会民主党]](SPD)所属。[[アーヘン2001]]出身。[[2001]][[ゲルハルト・シュレーダー]]内閣の[[ドイツ連邦から保健省|連邦保健大臣]]([[厚生大臣]]に当)として入閣すを務め。一(2002後、社会保障政策に関してシュミットの権限から2005年まで強化され、職名も連邦保健・社会保となった。2005年アンゲラ・メルケル首班とする[[ドイツキリスト教民主同盟|キリスト教民主]][[キリスト教社会同盟|社会同盟]](CDU・CSU)と社会民主党の[[大連立]]内閣が発足すると、連邦保健相のポストで入閣した兼任)
 
 
== 経歴 ==
[[アーヘン]]出身。実業学校を卒業した後、補習学校に通って[[アビトゥーア]]に合格し、[[アーヘン工科大学]]で[[心理学]]を、[[アーヘン教育大学]]で[[教育学]]を学び、[[1976年]]に教員資格試験に合格。この頃シュミットがアーヘンで姉の経営するいかがわしいバーで働いていたことを、[[2005年]]になって雑誌「[[シュテルン (雑誌)|シュテルン]]」が報じたが、取材に対しシュミットは「当時私はシングルマザーの学生で、お金が必要だった。姉の手伝いが出来て週に一度顔を合わすことが出来たのは嬉しいことだった」と答えている。1976年から[[1985年]]まで、[[ストールベルグ (ノルトライン=ヴェストファーレン)|シュトールベルク]]の学習障害児童学校で教員を務める。離婚した夫(シュミット姓は元夫のもの)との間に一児。
 
[[1976年]]の[[ドイツ連邦議会]]選挙に、西ドイツ毛沢東共産主義同盟から出馬するが落選。[[1983年]]、[[ドイツ社会民主党]](SPD)に入党。[[1989年]]、アーヘン市議会議員に当選(‐[[1992年]])。[[1990年]]、ドイツ連邦議会議員に初当選。[[1991年]]から[[1998年]]まで、議会内超党派の男女同権推進グループの代表を務める。[[1991年]]より党議員団執行部入りし、1998年から[[2001年]]まで同副委員長。同時期、党の[[第2ドイツテレビ]](ZDF)評議員を務める。
 
[[2001年]]、[[狂牛病]]問題で[[アンドレア・フィッシャー]]保健相が辞任に追い込まれると、後任の[[ドイツ連邦保健省|連邦保健大臣]]([[厚生大臣]]に相当)として[[ゲアハルト・シュレーダー]]内閣に入閣する。一年後、社会保障政策に関してシュミットの権限は強化され、職名も連邦保健・社会保障相となった。一連の保健制度改革により[[2004年]]に診察料の自己負担率が引き上げられたが、シュミット保健相の事前の説明と異なり、保険料がむしろ上がったため批判を受けた。2005年11月に[[アンゲラ・メルケル]]を首班とする[[ドイツキリスト教民主同盟|キリスト教民主]][[キリスト教社会同盟|社会同盟]](CDU・CSU)と社会民主党の[[大連立]]内閣が発足すると、引き続き連邦保健相のポストで入閣した。
 
== 外部リンク ==
* [http://www.ulla-schmidt.de/ 公式ホームページ]
 
 
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{{先代次代|[[ドイツ連邦保健省|保健相]]|[[2001年]] - |[[アンドレア・フィッシャー]]|現職}}
 
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[[Category:ドイツの政治家|しゆみつと うら]]
[[Category:1949年生|しゆみつと うら]]