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{{改名提案|t=ノート:宣帝 (後梁)|date=2008年2月}}
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'''宣帝'''('''せんてい'''、[[519年]] - [[562年]]、在位:[[555年]] - 562年)は、[[中国]]の[[南北朝時代 (中国)|南北朝時代]]の[[後梁 (南朝)|後梁]]の初代皇帝。姓は蕭、名は詧、[[字]]は李孫、[[廟号]]は中宗。なお、以下の文章では蕭詧と記す。
 
[[531年]]、蕭詧は[[梁 (南朝)|梁]]より岳陽郡王、東揚州[[刺史]]に任命され、[[会稽]]で勢力を伸ばした。[[546年]]には[[雍州]]刺史となり[[襄陽]]に移っている。[[549年]]、蕭詧の兄である長河東王[[蕭誉]]が叔父である湘東王[[元帝 (南朝梁)|蕭繹]](後の南梁元帝)の攻撃を受ける事件が発生すると、蕭詧は蕭誉救援の兵を起こすが失敗、[[西魏]]へと帰属することとなった。西魏は[[550年]]に蕭詧を梁王に冊封しこれを優遇、[[554年]]に西魏が江陵を攻撃し、元帝は投降、蕭詧により殺害された。
 
その後[[555年]]に蕭詧は梁皇帝を自称し、元号を[[大定 (後梁)|大定]]と定めて自立した。しかし江陵附近の800里の地以外、襄陽を含めすべて西魏に併呑されており、国勢は振るわなかった。[[562年]]、蕭詧は病没し、子の[[明帝 (後梁)|蕭巋]]がその地位を継承した。