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'''王 僧弁'''(おう そうべん、Wang SengBian、生年不詳 - [[555年]])は、[[南北朝時代 (中国)|南北朝時代]]の南朝・[[梁 (南朝)|梁]]の将軍。[[字]]は君才。[[太原]]郡祁県の人。本来の表記は'''王僧辯'''。
 
[[天監]]年間([[502年]]~[[518年]])に、父に従って[[北魏]]から梁へ亡命。湘東王・[[元帝 (南朝梁)|蕭繹]]に仕え国左常侍、竟陵太守となる。[[太清]]2年([[548年]])、[[侯景]]の乱が起き、梁朝は大混乱となるが、王僧弁は蕭繹に仕え、[[大宝 (梁)|大宝]]元年([[550年]])河東王・[[蕭誉]]を討伐した功により、左衛将軍ついで領軍将軍となる。翌年さらに大都督に進み、[[九江]]で[[武帝 ()|陳覇先]]と同盟し、[[巴陵]]の地で侯景を破る。大宝3年([[552年]])には侯景軍の支配下にあった首都[[建康 (都城)|建康]]を奪還するが、軍兵らの大規模な略奪により名声を失う。侯景は逃亡の途中、殺された。
 
侯景の乱鎮圧および建康陥落の功が認められ、永寧郡公ついで鎮衛将軍・尚書令となり、[[江陵]]にとどまっていた蕭繹を皇帝として擁立する(元帝)。さらに西征を行い、[[湘州]]の[[陸納]]や、皇帝を私称した益州の武陵王・[[蕭紀]](元帝の弟)を討伐。また、北朝([[北斉]])の軍も撃退し、太尉・車騎大将軍となる。
 
かつて王僧弁に敗れた蕭誉の弟・[[蕭サツ|蕭詧]]は北朝・[[西魏]]へ亡命し、保護されていたが、この蕭詧こそ梁の正統であるという名分のもと、[[554年]]西魏は江陵を攻め、元帝を殺害した。西魏の傀儡である蕭詧は即位(後梁の宣帝)するが、建康側はこれを認めず、王僧弁は陳先らとともに晋安王・[[蕭方智]](敬帝)を擁立し、太宰となった。
 
いっぽう、西魏と対立する北斉は、侯景の乱の頃(当時は北斉ではなく[[東魏]])に捕らえていた元帝の従兄弟・[[蕭淵明]](閔帝)を梁に送還し、皇帝とするよう迫った。江陵奪回のため、北斉との連携が不可避と考えた王僧弁は、[[淮南]]割譲および蕭方智の立太子を条件として、これに応じたが、あくまで蕭方智を皇帝に推す陳先と対立。紹泰元年([[555年]])、陳先に攻められ、建康で敗死した。ライバルを倒した陳先は2年後、敬帝から禅譲を受け[[陳 (南朝)|陳]]の武帝となったが、王僧弁の残党は各地で反抗し、結局陳は弱体化を免れ得ず、南朝最後の王朝となる。
 
== 伝記史料 ==