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{{基礎情報 行政区画
|IB_NameJa=コソボ共和国
|IB_Name=<b '''{{lang="|sq">|Republika e Kosovës</b>}}'''<small>([[アルバニア語]])</small><br /><b '''{{lang="|sr">|Република Косово</b>}}'''<small>([[セルビア語]])</small>
|IB_Flag=[[Image:Flag_of_Kosovo.svg|100px|コソボの旗]]
|IB_Coa=<!--章なし-->
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}}
 
[[Image:Kosovo_in_Balkans.png|thumb|right|290px|バルカン半島とコソボ共和国]]
コソボ及びメトヒア自治州'''([[セルビア語]]:<B lang="sr">Косово и Метохија / Kosovo i Metohija</B>、[[アルバニア語]]:<B lang="sq">Kosovë / Kosova</B>)改め、'''コソボ共和国'''は、[[バルカン半島]]中部にある[[共和国]]。'''コソボ及びメトヒア自治州'''([[セルビア語]]:<B lang="sr">Косово и Метохија / Kosovo i Metohija</B>、[[アルバニア語]]:<B lang="sq">Kosovë / Kosova</B>)、通称'''コソボ'''という名の[[セルビア|セルビア共和国]]の自治州であったが、'''国連コソボ暫定行政ミッション'''(United Nations Interim Administration Mission in Kosovo:UNMIK)の暫定統治による管理([[セルビア]]政府の実効支配はごく限られた一部の地域と一部の出先機関を除いて及んでいなかった)を経て、2008年2月17日に独立を宣言した。北東をセルビア、南東を[[マケドニア共和国]]、南西を[[アルバニア]]、北西を[[モンテネグロ]]に囲まれている。
 
'''コソボ及びメトヒア自治州'''([[セルビア語]]:'''{{lang|sr|Косово и Метохија / Kosovo i Metohija}}'''、[[アルバニア語]]:'''{{lang|sq|Kosovë / Kosova}}''')、通称'''コソボ'''という名の[[セルビア|セルビア共和国]]の自治州であったが、'''国連コソボ暫定行政ミッション'''(United Nations Interim Administration Mission in Kosovo:UNMIK)の暫定統治による管理([[セルビア]]政府の実効支配はごく限られた一部の地域と一部の出先機関を除いて及んでいなかった)を経て、[[2008年]][[2月17日]]に独立を宣言した。
 
== 歴史 ==
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一方[[セルビア人]]がこの地域にやってきたのは[[7世紀]]頃と見られている。当時、コソボの地は[[東ローマ帝国]]の支配下にあったが、その後[[10世紀]]に[[セルビア王国 (中世)|セルビア王国]]が成立すると、その領域に組み込まれた。セルビア人がこの地域について説明するとき、コソボは中世セルビア王国発祥の地であり、セルビアが[[オスマン帝国]]に敗れた[[コソボの戦い]]([[1389年]])の場所であることなどからセルビア人にとっては「聖地」と説明される事が多い。このため後の[[コソボ紛争]]ではセルビア人は、コソボがセルビア共和国から独立して切り離されるのに反対し、問題を複雑化させる一因となった。
 
[[イスラム国家]]であるオスマン帝国の征服後、コソボに住んでいた[[正教会]]信徒のセルビア人は、主に[[宗教]]的な理由(「[[セルビアの歴史]]-歴史-オスマン帝国の征服」参照)から、[[18世紀]]にかけて[[ヴォイヴォディナ]]地方へと移住した。代わりに、[[イスラム教]]に改宗したアルバニア人が人口希薄なコソボへと移住し、コソボにおけるアルバニア人の比率が高まった。19世紀に入りアルバニア人の民族意識が高揚してくると、[[1878年]]にはコソボの都市・[[プリズレン]]で[[民族主義]]者の団体・プリズレン連盟(アルバニア国民連盟)が結成され、民族運動が展開された。[[20世紀]]初頭の[[バルカン戦争]]の後、[[1912年]]に[[アルバニア]]の独立が宣言されると、その国土にコソボも組み込まれた。しかし、[[列強]]が介入した[[1913年]]の[[国境]]画定でコソボはアルバニア国土から削られ、[[セルビア王国 (近代)|近代セルビア王国]]に組み込まれる。[[第一次世界大戦]]中は[[オーストリア・ハンガリー帝国]]、[[ブルガリア王国]]の占領下にあった。
 
[[第一次世界大戦]]後に[[ユーゴスラビア]]王国が成立し、[[第二次世界大戦]]では[[枢軸国]]の侵攻を受けコソボにあたる領域はブルガリアに併合された。戦後、第二のユーゴとなる[[ユーゴスラビア連邦共和国]]が成立すると、コソボ一帯は[[アルバニア]]人が多数を占めていたことから、[[1946年]]に[[セルビア共和国]]内の自治区('''コソボ・メトヒヤ自治区''')とされた。これがコソボとセルビアの行政的な境となって今日に至っている。[[1950年代]]になるとコソボ独立運動が展開されるようになり、ユーゴ政府は独立運動を抑えつつ、[[1964年]]に民族分権化政策によってコソボ・メトヒヤ自治区を'''コソボ自治区'''に改称した。[[1968年]]、自治権拡大を求めるアルバニア人の[[暴動]]が発生し、[[1974年]]のユーゴ連邦の[[憲法改正]]により、コソボ自治区は'''コソボ自治州'''に昇格し自治権も連邦構成共和国並みに拡大された。しかし、アルバニア人は更なる自治権拡大を目指し、一方でコソボをセルビアの一部と見なすセルビア人の民族主義者は自治権拡大に苛立ちを強めた。この双方の利害対立が、[[ヨシップ・ブロズ・チトー|チトー]]大統領の死後大きく表面化することとなる。
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=== 独立運動 ===
==== 端緒 ====
[[1980年]]にセルビアから本格的に独立し自治州から「[[コソボ共和国]]」への変更を求める運動が勃発。これに反応したセルビアも民族主義派の台頭を招き、これが一連の[[ユーゴスラビア紛争]]の引き金の一つとなった。[[1989年]]にはセルビアが憲法改正でコソボの自治権を大幅に縮小したため、[[1990年]]に反発したアルバニア系住民が自治州から共和国への昇格と、セルビア共和国からの分離を宣言した。これに対してセルビアは自治州政府と議会を解散させて対応したが、翌1991年コソボ自治州内のアルバニア人が住民投票を実施し、99%の圧倒的支持を得てユーゴスラビアからの独立を宣言した。ただし独立したコソボを国際的に承認したのはコソボと同じ[[アルバニア人]]の国である[[アルバニア]]のみであった。さらに翌[[1992年]]には大統領選挙を実施して[[イブラヒム・ルゴバ]]が大統領に着任した。一方でセルビア(新ユーゴ連邦)は当時、[[クロアチア紛争]]、[[ボスニア紛争]]の最中でコソボまで対応する余裕が無く、対してコソボはルゴバが非暴力による独立運動を提唱したため、暴力的な民族紛争にまでは発展しなかった。
 
==== 紛争 ====
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== 地理 ==
* 面積  10,887km²
* 人口  200万人から220万人(推定)
* 首都  [[プリシュティナ]](アルバニア語''Prishtinë''、セルビア語''Priština'')
* 主要都市  [[プリズレン]](''Prizren'')、[[ペーチ]](''Peć'')
* 経済  経済的には[[ヨーロッパ]]の後進地域である。主要産業は[[農業]]で、土地が肥沃な[[盆地]]部では[[大麦]]・[[小麦]]・[[トウモロコシ]]・[[タバコ]]が生産される。[[鉱物]]資源が豊かで、トレプチャの[[亜鉛]]鉱山はヨーロッパでも最大級の規模を誇る。その他にも、[[石炭]]・[[銀]]・[[アンチモン]]・[[鉄]]・[[ボーキサイト]]・[[クロム]]などが産出される。
 
== 政治 ==
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== 民族構成 ==
* [[アルバニア人]] 88%
* [[セルビア人]]  7%
* [[ブルガリア人]]  2%
* その他: [[ボシュニャク人]]、[[ロマ]]、[[トルコ人]]など。
元々コソボのアルバニア人の比率は高かったが、[[ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争]]終了後[[セルビア]]がコソボの分離運動を抑えるために、[[ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争]]で[[難民]]となったセルビア人をコソボに入植させた。これによって一時的にコソボ内のセルビア人の割合は高くなったが、逆にアルバニア人の反感を招き、本格的な紛争に発展した。結局[[コソボ紛争]]によりコソボ内のセルビア人は、約20万人がコソボ外に国内避難民として退去、紛争終了後も治安問題、就職困難などの理由で難民帰還はほとんど進んでいない。現在、セルビア人は[[ミトロヴィツァ]]市北側をはじめコソボの北部に多く住んでいる他、中・南部にもセルビア人が住む居住地が飛び地状に点在している。
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== 外部リンク ==
{{commonscat|Kosovo}}
* [http://www.assembly-kosova.org/ Assembly of Kosovo]
* [http://www.pm-ksgov.net/ Kosovo Prime Minister]
* [http://www.sok-kosovo.org Statistical Office of Kosovo] - governmental agency of statistics
* [http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/serbia/kosovo/josei.html 外務省(コソボ情勢)]
* [http://www.unmikonline.org/ UNMIK](英語)
* [http://www.visitkosova.org/ the official webportal of Tourism in Kosovo]
* [http://www.newkosovareport.com New Kosova Report - Kosovo News and Views Portal]
* [http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Lake/2917/syometsu/kosovo.html 消滅した国々-コソボ共和国]
* [http://jp.rian.ru/politics/20080123/97565048.html コソヴォの国連加盟は絶対にない]
 
[[Category:アルバニアの歴史|こそほ]]
[[Category{{DEFAULTSORT:ユーゴスラビア|こそほ]]}}
[[Category:アルバニアの歴史|こそほ]]
[[Category:ユーゴスラビア]]
[[Category:コソボ|*]]