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[[Image:Antoine-Jean Gros 008.jpg|thumb|250px|right|アイラウの戦いにおける、野戦場の[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン1世]]、1808年]] [[Image:Antoine-Jean Gros 009.jpg|thumb|right|200px|クリスティーヌ・ボワイエ像、1800年頃]]
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'''アントワーヌ=ジャン・グロ''' ('''Antoine-Jean Gros''', [[1771年]][[3月16日]] - [[1835年]][[6月25日]])は、[[フランス]]の画家。
 
==生涯==
グロの父はミニアチュール画家で、息子が6歳になると絵を教え始めた。父親はから厳しい師匠であった。1785年の終わりになってグロは、自身で選んで[[ジャック=ルイ・ダヴィッド]]の画房へ入った。ダヴィドはしばしば倦むことなく、本業と平行し[[コレージュ・マザラン]](かつての[[パリ大学]]のコレージュの一つ)の授業を受け持ち、頻繁に訪れていた。
 
[[フランス革命]]により環境が激変したことに当惑していた父親が死に、1791年にグロは自分のやりくり収入で生きていかなければならなくなった。彼は今や自分の職にすっかりのめり込み、1792年には展覧会に出品しグランプリを狙った(不発に終わる)。しかしこの頃には、[[エコール・デ・ボザール]]の推薦で、彼は[[国民公会]]の肖像画制作の場に雇われた。革命の進行によりそれも破れ、彼は1793年に[[イタリア]]へ向けて発った。
 
===ジェノヴァとボナパルト家===
彼は[[ジェノヴァ]]で、多大な量のミニアチュールを作して生活した。彼は[[フィレンツェ]]を訪れたがそこで[[ジョゼフィーヌ・ド・ボアルネ]]の知己を得てジェノヴァへ戻った。彼はジョゼフィーヌに連れられて[[ミラノ]]へ向かい、彼はそこで彼女の夫[[ナポレオン・ボナパルト]]に歓待された。
 
1796年11月15日、グロは[[アルコラ]]近郊にフランス軍とともにいた。ナポレオンはアルコラの橋上に[[フランスの国旗]]を揚げることを計画したのである。グロはこの出来利用し描こうと決め、画家は自身の職であると思い知る作品を仕上げたのである。ナポレオンはすぐにグロに''inspecteur aux revues''の地位を与え、彼を軍に同行させることにした。1797年には[[ルーヴル美術館]]を富ますべくの収蔵品の一つに彼の作品を選ぶよう命令し、グロへの報酬とした。
 
===パリ===
[[Image:Antoine-Jean Gros - Bonaparte visitant les pestiférés de Jaffa.jpg|left|thumb|200px|ヤッファの悪疫避難所を訪問するナポレオン]]
1799年、ジェノヴァ市包囲戦から逃れてグロはパリへ戻った。1801年初頭、グロはカプチン街に自分の部屋を持った。彼の『ナザレスの戦い』(現在ナント美術館蔵)の構想は、執政政府により1802年に賞を与えらが打診されたが実行に移されなかった。[[ジャン=アンドシュ・ジュノー]]の嫉妬のためと言われる。しかしナポレオンはグロを保護し、[[ヤッファ]]にかまえた悪疫避難所を訪問させてグロに絵を描くよう命じた。『ヤッファの悪疫避難所』"Les Pestiférés de Jaffa" (ルーヴル美術館蔵)は、『[[アブキールの戦い]]』(ルーヴル美術館蔵、1806年)、『[[アイラウの戦い]]』(ルーヴル美術館蔵、1808年)に伴っ続い着想を得、描かれたものである。[[ブリタニカ百科事典第11版]]によれば、3点が上げられる。『大衆の支持を得た指導者が直面するの有害物かしがたい敵、勝利の荘厳な刹那へ挑戦すること、激戦の苦い損失を伴う心痛』、これらがグロに名誉ある称号を与えたのである。
 
ブリタニカ百科事典は、フランスの国民生活とともに膨張したままの軍事的要素が膨らんで期化したことに彼が着目し、グロはその社会の改編から新鮮で活力に満ちた刺激を受け、彼が描いた事件の核心部分を彼にもたらしたとする。しかし軍隊のように、それは一般庶民から全体的にかけ離れた軍隊の出来事であり、個人的な野心を満たすためだけにエピソードを再現し挿絵にしたと呼ばれたグロは、自分の天性をさらに豊かにする必要を探求するのをやめてしまった。そして彼の芸術的地位の欠陥は明らかとなっていった。[[古典主義]]派で鍛錬を積み、生まれながらもつ処置法手腕、彩色の生き生きとした効果をもたらす魅力、[[古典主義]]の流れに反するとみなされた色合いをもってさえ持ちながら、彼は古典主義派で修行しその規則決まり事に束縛された。
 
===サロンにて===
1804年のサロンで、グロは『ヤッファの悪疫避難所を訪問するナポレオン』でデビューした。絵画は、成功した画家として彼の経歴出世を送り出した。グロ自身が訪問したヤッファでのナポレオンを描いたものである。ナポレオンは[[エジプト]]征服の試みが打ち砕かれた後に周辺国を荒らしたが、部下の兵士らが[[ペスト]]に罹患したのである。世評は、なぜ彼が訪問したのかで二分された。ナポレオンがヤッファで配下の兵士らを死なせて去るべきだったか、それとも感染のおそれのある場所を訪問した彼の品位を賞賛すべきだったか、である。絵はグロにとって重要なものだった。なぜなら、彼はナポレオンを主として肯定的に描いたからである。彼は、同時代の画家らからかけ離れた、異国風の背景と最近起きた事件とを表し絵に描いのである
 
1810年、彼の絵画『マドリード』と『ピラミッドを前にするナポレオン』を発表し、彼の幸運の星は彼を見放した。グロの描いた[[フランソワ1世 (フランス王)|フランソワ1世]]と神聖ローマ皇帝[[カール5世 (神聖ローマ皇帝)|カール5世]](1812年、ルーヴル美術館蔵)は、相当な成功を収めたとされる。しかしサン・ジュヌヴィエーヴ教会ドームの装飾(1811年開始、1824年完成)は、技術と同じく彼の初期の勢いと活力を見せた、晩年唯一の作品であった。『[[ルイ18世 (フランス王)|ルイ18世]]の出発』、『[[マリー・テレーズ (アングレーム公爵夫人)|アングレーム公爵夫人]]の乗船』、ルーヴル美術館の「エジプトの間」にある飾り天井、そして最後に彼の『ヘラクレスとディオメデス』1835年にされた。彼の恩師ダヴィドの助がかつて忠したのと同じくするこの絵はグロの努力だけを証明していた。しかし[[ロマン主義]]の台頭が生じていたことから、古典主義派に属する彼は批判を受け、彼のかつての昔勝ち得た輝かしい名声だけが傷ついたのである。
 
==死==
再びブリタニカ百科事典へと戻る。『批判されたことへのいらだち、そして失敗したという自覚から、グロは人生のさらに濃い喜びの中へ身をれ家す場所を見いだした』。1835年6月25日、彼は[[セーヴル]]近郊の[[セーヌ川]]に身を投げ、既に溺死しているのを発見された。彼の帽子の中にあった一枚の紙には、こう書かれていた。''"las de la vie, et trahi par les dernières facultés qui la lui rendaient supportable, il avait résolu de s’en défaire."'' (人生に疲れ、残った才能からも耐えうる批判からも、裏切られた。彼は全てを終わらせようと決意したのだ)。
 
==名声==