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'''宇留野 義元'''(うるの よしもと、生年不詳 - [[天文]]9年[[3月14日 (旧暦)|3月14日]]([[1540年]][[4月30日]]))は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の武将。[[常陸国]][[宇留野城]]主から[[部垂城]]主。[[佐竹義舜]]の子。[[宇留野義久]]の養子。子女に[[大関高増]]室、竹寿丸。
 
[[享禄]]2年([[1529年]])[[小貫俊通]]の部垂(へたれ)城を攻略、'''部垂義元'''と名乗る。宿老の小貫氏を攻撃したことは、佐竹宗家の兄[[佐竹義篤 (十六代当主)|佐竹義篤]]への挑発とみられ兄弟の間の争いとなる。しかし、兄の義篤は江戸氏と小田氏の争いに介入するなどしており、状況を打開できずにいた。天文4年([[1535年]])[[高久義貞]]が義元に呼応して挙兵するが、義貞はすぐに降伏してしまうが、この機に義元は挙兵し、小瀬(現・[[常陸大宮市]])で戦い、翌年に和睦をした。
 
しかし、天文87年([[15391538年]])、天文8年と部垂にて義篤と戦った。天文8年、義篤は[[那須政資]]、[[那須高資]]父子の抗争に介入、翌年に撤退する時に突然に部垂城を攻撃した。これは、城の大手門の橋の普請に不満を持つ義元に家臣の前で罵倒されたことを恨んだ家臣の大賀外記の讒言によるものといわれている。この時僅かに50名の城兵しかおらず、義元は養父の義久、与した小場義実らと自刃し落城した。嫡男竹寿丸は逃げることに成功するが落城前に裏切った黒沢大学に捕えられ斬殺された。この12年にも及ぶ兄弟の争いを'''部垂の乱'''、または部垂十二年の乱という。義元に与した兄の[[佐竹永義]]や小場氏や前小屋氏らは許され、佐竹宗家の重臣となり、義元の家臣団は部垂衆として[[小場義忠]]の指揮下の小場寄騎衆に組み入れられ、[[慶長]]7年([[1602年]])、[[佐竹義宣]]の出羽への国替えで小場氏の拝領した大館城下に移った
 
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