「ジョヴァンニ・バッティスタ・ペルゴレージ」の版間の差分

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「プルチネルラ」について記述
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[[画像:Pergolesi.jpg|right|180px|ペルゴレージ]]
{{クラシック音楽}}
'''ジョヴァンニ・バッティスタ・ペルゴレージ''' ('''Giovanni Battista Pergolesi''', [[1710年]][[1月4日]] - [[1736年]][[3月16日]])は、[[イタリア]]の[[作曲家]]。'''ペルゴレーシ'''とも呼ばれる。[[オペラ・ブッファ]]の様式を完成させ、[[古典派音楽]]への道を示した。後生の[[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト|モーツァルト]]と並ぶほどの才能を持ちながら[[夭折]]してしまった。
== 生涯 ==
[[マルケ州]]の町[[イェージ]]に生まれ、幼い頃から音楽の才能を現し、[[ナポリ]]の音楽院に入学する。1731年に卒業し、卒業作品として[[音楽劇]]『グリエルモ・ダキタニアの改心』を作曲。作曲家としての扉を開く。同年、初のオペラ『サルスティア』を初演するも不評に終わった。1732年、[[オペラ・ブッファ]]『妹に恋した兄』を初演し最初の成功を収めた。1733年8月28日、サン・バルトロメオ劇場でオペラ『誇り高き囚人』を初演。失敗に終わったにもかかわらず、この作品の[[幕間劇]]として作曲された『[[奥様女中]] ''La Serva Padrona''』が歴史的な大成功を収め、オペラの歴史に大きな変革をもたらした。1734年にはナポリ楽長に就任。1735年、オペラ『オリンピアーゼ』をローマで初演するが失敗しナポリへ戻る。この頃から体調が悪化し、療養しながら作曲に取り組んだが、1736年にはナポリ近郊[[ポッツオーリ]]の聖フランチェスコ修道院に移る。死の直前、ナポリ在住貴族の集まり「悲しみの聖母騎士団 Cavalieri della Virgine dei Dolori」から委嘱された『[[スターバト・マーテル]] ''Stabat Mater''』(悲しみの聖母)と『[[サルヴェ・レジナ]] ''Salve Regina''』(めでたし女王)を作曲し、完成した後、[[結核]]によりわずか26年の生涯を閉じた。[[結核]]であった。
 
== 作品 ==
[[画像:La Serva Padrona.jpg|thumb|left|『奥様女中』]]
オペラやインテルメッツォ(幕間劇)を約10曲、[[ミサ曲]]や[[モテット]]、[[カンタータ]]を10曲以上、その他、数曲の[[器楽曲]]や[[室内楽曲]]が残されている。
明朗な旋律によるオペラを得意とし、『奥様女中』は、音楽史に名を残した最初のオペラ・ブッファとされている。晩年は宗教音楽に取り組み、『スターバト・マーテル』は、モーツァルトの宗教作品に匹敵する傑作である。([[ヨハン・ゼバスティアン・バッハ]]が最晩年にドイツ語のモテット(BWV1083[BWV1083 我が罪を拭い去りたまえ、いと高き神よ Tilge, Höchster, meine Sünden)Sünden]に編曲している。
 
生前の成功は限られたものであったが、没後人気が上昇し、その結果として偽作が大量に出回ることにもなった。多数の作品が誤って彼の作曲とされ、その混乱は1939~42年の〈作品全集〉にまで及んでいる。
 
[[20世紀]]前半には[[イーゴリ・ストラヴィンスキー]]がペルゴレーシの真作の中から数曲を選び、和音などに変更を加えてバレエ音楽「[[プルチネルラ]]」とした。形を変えながらもペルゴレーシの作品が[[新古典主義]]の幕開けを告げたことは興味深い。
 
== 外部リンク ==