「オデオン座」の版間の差分

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この劇場は、歴史の波間で、いろいろ名前を変えている。
 
王立劇団[[コメディ・フランセーズ]]の劇場として、1779年5月着工、[[1782年]][[4月9日]]、[[ルイ16世 (フランス王)|ルイ16世]]の[[マリー・アントワネット]]臨席のもとに開場した。'''フランス座'''(Théâtre Français)を称した。
 
1789年、[[フランス革命]]直前、'''国民劇場'''(Théâtre de la nation)と改名した。1791年、革新派の俳優らが去った。1793年、'''平等劇場 マラー支部'''(Théâtre de l'Égalité section Marat)とした。1794年、一時閉鎖された。1796年、'''オデオン座'''を名乗った。1799年3月18日の火災を機に革新派と仲直りし、[[コメディ・フランセーズ]]劇団は、右岸の[[パレ・ロワイヤル]]の劇場に合体した。「とざま」俳優の一部は、残留した。
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1807年6月15日、[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]皇帝の資金で復旧された。皇后専用の趣旨で、名称は'''皇后劇場'''(Théâtre de l'Impératrice)であった。
 
1818年5月20日、[[ルイ18世 (フランス王)|ルイ18世]]時代)、また燃え、再建後の1819年、[[コメディ・フランセーズ]]の第2劇場、'''第2フランス座'''(Second Théâtre-Français)に指定された。
 
1830年、[[フランス7月革命|7月革命]]では、革命派市民の拠点にされた。革命後公的補助が廃され、貸し小屋となり、'''乗合劇場'''(Théâtre "Omnibus")のあだ名がついた。
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1848年の[[1848年革命|二月革命]]の余波で破産し、いったん閉鎖した。
 
1866年、[[ナポレオン3世 (フランス皇帝)|ナポレオン3世]]時代、[[コメディ・フランセーズ]]を抜けた[[サラ・ベルナール]]が1872年までオデオン座で公演した。1870年、[[パリ]]が[[プロシアイセン王国|プロイセン]]軍に包囲されたときは、負傷者の収容所になった。
 
1892年、[[フランス第三共和政|第3共和制]]時代)、劇場が国に返還された。
 
1906年、ふたたび'''第2フランス座'''(Second Théâtre-Français)となった。
 
[[第二次世界大戦]]中、1940年 - から1944年の被占領期には、ドイツ軍が駐在した時期もあった。
 
戦後の1946年2月27日の政令で、[[コメディ・フランセーズ]]の第2劇場とされた。右岸[[パレ・ロワイヤル]]の第1劇場は『リシュリュー館』(Salle Richelieu)、左岸のオデオン座は『'''リュクサンブール館'''』(Salle Luxembourg)と呼び分けられ、新旧・内外など、両館の演目が区分された。
 
1959年、[[シャルル・ド・ゴール|ド・ゴール]]大統領の時代、文化相[[アンドレ・マルロー|マルロー]]が、オデオン座を[[コメディ・フランセーズ]]から離し、'''フランス劇場'''(Théâtre de France)と名付け、[[ジャン=ルイ・バロー]]と[[マドレーヌ・ルノー]]との『ルノー=バロー劇団』(la troupe Renaud-Barrault)に預けた。
 
1967年1月、実験的な小劇場『プティ・オデオン』(Petit-Odéon)を併設した。
 
1968年、[[五月革命 (フランス)|五月革命]]の学生らにオデオン座を明け渡した廉で、バローがマルローに罷免され、劇場は1971年、[[ジョルジュ・ポンピドゥー|ポンピドゥー]]大統領の時代)、[[コメディ・フランセーズ]]の管轄下に戻って'''国立オデオン劇場'''(Théâtre national de l'Odéon)を称し、内外の演劇の進歩に努める定めになった。
 
1983年、[[フランソワ・ミッテラン|ミッテラン]]大統領の時代)、[[欧州共同体]](EC)から[[欧州連合]](EU)への機運の中で『ヨーロッパ劇場』の催しを始め、従来からの演目の上演と各国の劇団の公演とを両立させた。1990年、[[コメディ・フランセーズ]]から離れ、全くの'''ヨーロッパ劇場'''(Théâtre de l'Europe)となった。諸国の劇団や演出家が、上演し合う劇場である。
 
1995年、演劇図書館『ジャン=ルイ・バロー』文庫を、開設した。