「倫子女王」の版間の差分

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[[元文]]3年([[1738年]])1月20日、[[閑院宮直仁親王]]の第六王女として[[京都]]に誕生。母は[[閑院宮家]]の女中の讃岐。[[寛延]]元年([[1748年]])10月、[[京都所司代]][[牧野貞通]]が朝廷と交渉し、倫子女王と[[徳川家治]]との縁組が決定された。[[寛延]]2年([[1749年]])2月に[[京都]]を発ち、3月に[[江戸]]へ到着するとすぐに江戸城浜御殿へ入った。[[宝暦]]4年([[1754年]])12月に江戸城西の丸へ入輿し、以降は「[[御簾中]]様」と称された。[[宝暦]]6年([[1756年]])7月、家治との間に長女[[千代姫 (華光院)|千代姫]]を産んだが、同姫はわずか2歳で夭折。[[宝暦]]10年([[1760年]])4月、江戸城本丸へ移り、「[[御台所]]様」となる。同年の8月に従三位に昇進し、9月には夫の家治が[[征夷大将軍]]を拝命する。[[宝暦]]11年([[1761年]])8月、次女[[万寿姫]]を産んだが、この姫も13歳で夭折。[[明和]]8年([[1771年]])8月20日、34歳の若さで薨去。江戸上野春性院にて葬られた。[[明和]]8年([[1771年]])8月23日には従二位を、さらに[[天明]]3年([[1783年]])8月には従一位を追贈された。
 
{{先代次代|御台所(徳川将軍家正室)||[[培子女王|比宮培子女王]]|[[広大院|近衛寔子(茂姫)]]}}
 
{{DEFAULTSORT:ともこ しよおう}}