「康公 (秦)」の版間の差分

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父の[[穆公 (秦)|穆公]]は英邁で知られ、名臣[[百里奚]]の補佐を得て周辺の小国を次々と服属させ、西の果てに位置する未開の小国に過ぎなかった[[秦]]を大国[[晋 (春秋)|晋]]にも匹敵する一大強国へと育て上げた。しかし、穆公が死ぬと後を追うように200名近くの重臣たちが次々と[[殉死]]した。これにより秦の国力は大きく衰え、再び隆盛をえるのにしばしの時を必要とした。のちに[[始皇帝]]は、このときの停滞を教訓として、[[殉死]]を防ぐ目的で[[兵馬俑]]を造らせたと言われている。
 
[[紀元前620年]]、[[晋 (春秋)|晋]]の[[襄公 (晋)|襄公]]が死去すると後継者争いが起こり、当時[[秦]]にいた[[公子雍]]が新たな晋公に即位すると決まったところを、宰相[[趙盾]]が約束を破って夷皋を立てて[[霊公 (晋)|霊公]]とした。このため、公子雍を迎えるための使者であった晋の[[先蔑]]と[[士会]]は怒って秦に亡命した。当時、[[士会]]は無名の大夫であったが軍旅の才を見せ、康公へ献言して晋の領土を次々と攻略した。これに悩んだ[[趙盾]]は[[郤缺]]に相談して謀略を用い、士会を晋に取り戻したほどである。士会はのちに晋の宰相となった。このとき、[[士会]]の一族の一部が秦に留まり劉氏を名乗るようになった。のちに[[前漢|漢]]の高祖[[劉邦]]はこの人々の末裔であると名乗ったという。
 
[[紀元前609年]]、康公は没する。在位12年であった。こののち[[秦]]は早世する君主が続き、そのことも秦がなかなか興隆できず中原の覇権をかけた戦いに参与できない要因となった。
 
{{先代次代|[[秦]]の[[中国帝王一覧|君主]]|第10代:前621年 - 前609年|[[穆公 (秦)|穆公]]|[[共公 (秦)|共公]]}}
 
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[[Category:中国の君主]]
[[Category:春秋戦国時代の人物]]
[[Category:紀元前609年没]]
 
[[zh:秦康公]]