「牛尾幸清」の版間の差分

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'''牛尾 幸清'''('''うしお  ゆききよ''')は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の[[武将]]。[[尼子氏]]の[[家臣]]。[[受領名]]は遠江守。[[家系]]は諏訪神社神主家 [[諏訪氏]]の傍流、中澤氏の末裔。
 
{{武士/開始|牛尾幸清}}
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{{武士/官位|[[遠江]]守}}
{{武士/氏族|[[牛尾氏]]}}
{{武士/兄弟|弟:'''幸清'''、[[牛尾久晴|久晴]]}}
{{武士/子|[[牛尾久信]]、[[牛尾幸晴]]、[[牛尾幸信]]<br />[[牛尾隣西堂]]、[[牛尾甚次郎]]}}
{{武士/終了}}
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== 生涯 ==
===経久時代===
[[尼子経久]]の時代から[[家老]]として家中でも重きを成した。[[宇山久兼]]・[[佐世清宗]]らと並ぶ三重臣の一人でもあり、[[尼子限帳]]においては[[備前]]のうちで10万石を与えられ、尼子家家中で第3位の地位にあったとされる。[[出雲]]国内では、大原郡牛尾荘を支配していた。
 
[[永正]]8年([[1511年]])、[[大内義興]]の上洛の際、経久と共に大内軍に参加して上洛し、[[三好氏]]と戦った([[船岡山の戦い]])。尼子の主な合戦はほとんど出たという。
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===義久時代===
[[永禄]]5年([[1562年]])[[毛利氏]]による[[白鹿城]]攻めで、援軍として戦ったものの落城した。出雲の城が、落ちていき、もうすぐ尼子の居城[[月山富田城]]に迫っていた。
[[永禄]]8年([[1565年]])、毛利元就による[[月山富田城]]攻めが始まると、[[尼子義久]]に従って籠城したが、[[兵糧攻め]]が始まり、しかも食糧補給も断たれ、城内の者は飢えに苦しんだ。その末、幸清は、嫡男の久信と共に毛利元就に降伏した。その後の消息は不明である。