「福宝堂」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
ネッツ (会話 | 投稿記録)
m +Link
Kmrt (会話 | 投稿記録)
m typo
1行目:
'''福宝堂'''('''ふくほうどう'''、[[1910年]][[7月]] - [[1912年]][[9月10日]] 合併)は、かつて[[東京]]に存在した日本の[[映画会社]]である。日本最古の映画会社のひとつであり、[[日活]]を構成する前身4社のうち1社として映画史にその名を残す。同社の直営館「第一福宝館」が、現在の[[国立近代美術館#フィルムセンター|国立近代美術館フィルムセンター]]となったことでも知られる。
 
== 略歴・概要 ==
[[1910年]](大正9年)7月、[[田畑健造]]が[[東京市]][[日本橋区]]通1丁目13(現在の[[東京都]][[中央区]]日本橋2丁目あたり)に設立した。当時増加しつつあった映画の常設館を規制するために警視庁が設けた「1区内1館」の内規に目をつけ、「第十五福宝館」まで土地を押さえ、営業許可ごと売却しようと考えたが、意外に売れなかった。そこで自社で直営館を建てることになり、第一福宝館を京橋に、第二福宝館を芝に、第三福宝館を麻布十番に、と「第八福宝館」までを建設した。つまり興行会社として始まった。
 
興行師の[[小林喜三郎]]を本社営業部長に、大阪支店長には前年に「[[三友倶楽部]]」を設立した[[山川吉太郎]]を迎えたが、プログラムの不足から、[[東京府]][[北豊島郡]][[日暮里村]](現在の[[荒川区]][[西日暮里]]3丁目7)に自社の撮影所を建てた。それが「福宝堂日暮里花見寺撮影所」である。興行に強かった同社は、粗製濫造をしたが、資金には事欠かなかった。また、各館専属の人気[[活動弁士]]による興行力もあった。
 
[[1912年]](大正元年)9)[[910日]]、[[横田商会]]、[[吉沢商店]]、[[M・パテー商会]]との4社合併で「日本活動写真株式会社」(日活)を設立した。「日暮里花見寺撮影所」は閉鎖されたが、直営館はいずれも日活の直営館として引き継がれた。しかし、人的リソースとしては問題があり、合併後の横田商会系の社内での台頭に反発した営業部門の小林と山川は早晩退社し、「[[天然色活動写真]]」(天活)の基礎を築きはじめた。
 
== おもなフィルモグラフィ ==
56行目:
[[Category:映画スタジオ]]
[[Category:サイレント映画]]
[[Category:19061910年]]