「歴史家」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
m編集の要約なし
5行目:
18~19世紀の[[歴史学]]の確立により、これ以降の歴史研究者は'''歴史学者'''と呼ばれることとなる。最初の歴史学者として名前があげられるのは主に[[エドワード・ギボン|ギボン]]([[1737年]] - [[1794年]])や[[レオポルト・フォン・ランケ|ランケ]]([[1795年]] - [[1886年]])であることが多い。[[イギリス]]のギボンは文明論的歴史観に基づき大著『[[ローマ帝国衰亡史]]』を著したが、当時の[[啓蒙主義]]的[[世界観]]から自由になることはできなかった。
 
これに対し、[[ドイツ]]のランケは同時代の[[ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル|ヘーゲル]]らの[[弁証法]]的[[唯物史観]]や、中世のキリスト教中心的史観、[[ルネサンス]]期の[[教訓主義]]などを批判し、[[政治史]]や[[外交史]]を中心に「客観的歴史叙述」に徹する姿勢を貫いた。彼の手法としてあげられるのは、厳密かつ広範囲な[[史料批判]](一次史料としての日記や備忘録、外交記録、当事者や周辺の人々の証言などを含む)と[[ロマン主義]]を統合させ、対象とする時代の普遍的概念を描きながらも、個別の事象をありのままに記そうと試みたことだろう。ランケの歴史研究、および歴史教育の手法は、彼が教壇に立っていた[[ベルリン大学]]を中心に、[[ドイツ]]のみならずヨーロッパ全土、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]にも多大な影響を与えた。「歴史の父」と呼ばれるヘロドトスに対し、ランケが'''「近代歴史学の父」'''や'''「客観的歴史叙述の父」'''と呼ばれる理由はそこにある。
 
後年、ランケの世界観は[[ヨーロッパ中心史観]]や史料至上主義であると批判されることもあるが、歴史家と歴史学者の呼称の区分は、ランケ以前・ランケ以降でされることが多く、便宜的に19世紀以前・以降で区分をすることもある。20世紀以降の歴史学者は、戦間期の[[アナール学派]]の台頭により、個別の事件性や[[通史]]ではなく、[[農政史]]、[[出版史]]、[[物価史]]、[[人口史]]、[[経済史]]、[[心性史]]などの社会学的[[テーマ史]]や、[[社会学]]、[[文化人類学]]、[[経済学]]、[[民俗学]]などを取り入れる学際性を重視する傾向にある。歴史学者は自己の生きている時代性や、自己の問題意識にもとづき、自由に研究対象を選択することができるが、複数の史料(文献の形式以外のものも含む)を分析しながら、「正確に」事象やその因果関係を叙述することは、常に容易な作業ではない。