「後梁 (南朝)」の版間の差分

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[[画像:北周・北斉・陳・後梁.PNG|right|thumb|300px|北周・北斉・陳・後梁]]
 
[[梁 (南朝)|梁]]の皇族だった[[宣帝 (後梁)蕭サツ|蕭詧]]は、[[侯景]]の乱の後に各地の王族が対立する中で、[[元帝 (南朝梁)|蕭繹]]と対立し、生き残りのために[[西魏]]に援軍を求め、保護という名で実質的に支配下に入る。その後、蕭繹は[[北斉]]と緊密な関係となったため、西魏はそれに対抗して[[江南]]への影響力を確保するため、550年に蕭詧を梁王とした。その後即位して元帝となった蕭繹と西魏との対立の末、554年、西魏の軍勢は[[江陵]]にあった元帝の政権を攻め滅ぼし、蕭詧を梁の皇帝に即位させた。これが後梁の誕生である。
 
しかし、後梁が支配下に置いたのは江陵周辺のごく一部の地域のみであり、実質は西魏の[[傀儡政権]]だった。一方、北斉は自らの支配下にいた[[蕭淵明]]を梁へ送り込み、こちらが実効支配をすることになる(その直後、[[敬帝 (南朝梁)|敬帝]]が即位)。
 
その後、敬帝は[[陳 (南朝)|陳]]の武帝となった[[陳霸先]]によって退位させられ、梁は滅亡する。一方後梁は西魏、それに代わった[[北周]]、さらにそれに代わった[[隋]]に至るまで、傀儡政権でありながら命脈を保った。この理由の一つとしては、西魏や北周にとっては、陳が簒奪政権であり、自分の配下にある後梁こそが正統であると主張することによって、江南へ勢力を伸ばそうとする試みを正当化する理由となっていたことが挙げられる。
 
また、後梁は梁朝の爛熟した文化を受け継いでおり、傀儡政権とはいえその城下には高い文化が花開き、後世にその文化を伝える役割を果たしたとも言える。
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南北朝統一直前の587年、隋の[[楊堅|文帝]]により、後梁は廃された。
 
南朝陳の滅亡後の589年、陳の東揚州刺史蕭厳と呉州刺史蕭瓛が主に推されて隋に反抗しているが、蕭厳は後梁宣帝蕭詧の五男であり、蕭瓛は後梁明帝[[明帝 (後梁)蕭キ|蕭巋]]の三男であった。また、隋末に巴陵に起兵し梁王を称した[[蕭銑]]は蕭厳の孫であった。さらに、[[唐]]の尚書左僕射に上った[[蕭ウ|蕭瑀]]は蕭巋の子である。これらの事実は後梁滅亡後も蕭氏が高い名望を保っていたことを示している。
 
== 後梁の皇帝 ==
#中宗[[宣帝 (後梁)蕭サツ|宣帝]](蕭詧、在位:[[554年]] - [[562年]])
#世祖[[明帝 (後梁)蕭キ|明帝]](蕭巋、在位:[[562年]] - [[585年]])
#[[後主 (後梁)蕭ソウ|後主]](蕭琮、在位:[[585年]] - [[587年]])
 
== 参考文献 ==